映画評『鉄腕ジム』(1942)

しかし、ラオール・ウォルシュほど脚を撮った監督はいない。だからして『鉄腕ジム』などといういかがわしい邦題を『俊足ジム』に改めるべきである。飄々としたエロール・フリンのステップは筋骨隆々の拳闘家たちの大ぶりの拳を最も容易く交わす。その際、編…

映画評『ベルリン 天使の詩』(1987)

・天国より遠いところ 灰色にくすんだベルリンの街が眼下に広がっている。その様子をじっと見守っている天使ダミエルは、家の一軒一軒から地下鉄へ、時には飛行機にまで飛び回り、病める人々の心を安らげるため、そっと肩に手をあてる。心が純粋なものにはな…

映画評『ハドソン川の奇跡』(2016)

「私ではない。あらゆる人々が成し遂げ、生き延びることができたんです」ーー『ハドソン川の奇跡』 絶対的な個人の活躍を疑い、個々が何らかの部品として機能する。飛行機が川に不時着しようと、取り乱すことなく、冷静に職務をまっとうするのが要であり、ア…

映画評『木と市長と文化会館』(1993)

『木と市長と文化会館』は実にたあいない素振りを見せる。 フランスの片田舎に、若い市長が古樹を倒し、村興しのためにメディアテークを築こうと試みている。それに反対する小学校の教師、政治雑誌の編集者がそれぞれ、ほどほどに関わる。 こうした筋書きの…

映画評『加恵、女の子でしょ!』(1996)

何やらパイプを指でいやらしく弄る背広姿の男性教授の後ろ姿が映しだされるところから 『加恵、女の子でしょ!』(1996)は始まる。殺風景なセットに並べられたブラウン管はそれぞれ原色が映しだされている。教授はそのひとつひとつをネチネチと講評していく…

映画評『スターマン』(1984)

ある夜、窓の外には木々を背中に広がる湖がみえる。そこにひとつのきらめく星が落ち、光を放つ。その様子に気づくこともなく、八ミリのホームビデオに映る夫役のジェフ・ブリッジスと自分の姿に目を奪われ、涙する妻ジェニーを演じるカレン・アレンはワイン…

書評『ロードムービーの創造力』

ニール・アーチャーの『ロードムービーの想像力 旅と映画、魂の再生』(晃洋書房、2023年)は端的に要約すると、『イージーライダー』(1969)を皮切りに、『断絶』(1971)、『バニシング・ポイント』(1971)ほかと二匹目のドジョウを狙った映画が商業的に作られて…

映画評『首』(2023)

親分「おい、お前やれよ」 子分「え? おれがすか?」 親分「いいから、やれよ」 子分「じゃあ……」 親分「ばかやろう、何やってんだお前」 北野武はヤラセの人である。いわゆる、ビートたけしとたけし軍団のコントは、親分が子分にわざと馬鹿馬鹿しいことを…

映画評『哀れなるものたち』(2023)

「わたしの身体はわたしのもの」 『歌う女・歌わない女』(1977) 『哀れなるものたち』(2023)に対して覚えるのはノスタルジーである。メジャーの映画会社であるフォックスサーチライトすなわちディズニーが配給している点である。ストーリーは実の子の赤…

映画評『不審者』(1951)

ストーリーは不審者の通報をきっかけに、警官の男が地元の名士の人妻と関係を持つ。男は身体と遺産目当てに名士を罠に嵌めて殺す。男は未亡人と結婚するも、すでに自分の子供を孕んでいることに気がつく。子が産まれて、不倫関係が発展しての謀殺が、世間に…

映画評『パーフェクト・デイズ』(2023)

簡単に言い過ぎかもしれないが、ニュージャーマンシネマというのはナチスによって受けたダメージに対しての作家たちによる批判という側面はあると思う。アウシュヴィッツ以後に詩を書くのと同様、映画を撮ることも野蛮なのだ。ヒトラーが利用した映画メディ…

映画評『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)

この映画の話法として重要なのは何も知らない未熟な少年が、未知の魔法界に足を踏み入れるという点である。 だから、常にキャメラのアングルは観客が魔法界にいるかのようなところに据えられている。真俯瞰から撮られたクレーンのキャメラがランタンの灯った…

映画評『断片的なものの社会学』

「コンビニエンスストアは、音で満ちている」ーー村田沙耶香『コンビニ人間』 岸政彦の『断片的なものの社会学』にあった挿話が非常に映画的だった。ここで言う、映画的とはいわば『ラ・ラ・ランド』(2016)のような、映画狂の監督が、シネマスコープの画角で…

映画評『哀愁の湖』(1945)

普段、映画を見ていて戯けた話だと思うことはあまりない。とは言いつつも、五所平之助の『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933)が伏見晃があまりにも泥臭く通俗的な脚色を施していて、一高生が惚れた旅芸人の女が旅館の亭主の下に身体を預けることになるのではと案…

エッセイ「ひとでなし!」

「愛している人を軽蔑するのは自分を軽蔑するのと同じ」『アメリカの夜』La Nuit américaine(1973年、フランソワ・トリュフォー監督)より フランソワ・トリュフォーが「Salaud 」と揶揄するのを、山田宏一は「人でなし」と訳す。 人を人でなしと罵倒するのは…

映画評『寝ても覚めても』(2018)

Ⅰメロドラマとは 「メロドラマとはなにか?という問いにひとことで答えることは難しい。が、過剰なる感情のための過剰なる形式であるととりあえず定義しておくことはできるだろう。たとえば愛に身を焦がすひとりのヒロインがいる。メロドラマ映画は、ありと…

引用 シャンタル・アケルマンについて『映画史 入門』より

何人かの映画作家は、断片的な物語を厳格で禁欲的にミニマルに描く戦略を追求した。 その最たる例がシャンタル・アケルマンであり、この頃もっとも影響力のある女性監督の一人だった。アケルマンのミニマリズムというのは欧州が源というよりかは、ウォーホル…

映画評『草原の輝き』(1961)

『草原の輝き』(1961)はいわゆるウェルメイドな映画だと感じた。ストーリーは20年代のカンザス州という保守的で家父長制の権化のような環境に抑圧された高校生の童貞バッドと処女ディーニーのカップルがいる。性欲に負けた男の方が誰とでも寝る女で性体験…

引用『Me キャサリン・ヘップバーン自伝』

「『愛の嗚咽』に出演するため、私が一九三二年にカリフォルニアへ足を踏み入れたとき、ジョン・フォードはRKOではたらいていた。せまい撮影所だったせいで、そこではたらいている人たちはいやでも知合いにならざるをえない。フォードは全員の尊敬をあつめて…

運動表『暗黒街の弾痕』(1937)

運動表『暗黒街の弾痕』(1937) 法廷、秘書のシルヴィア・シドニー、果物屋に絡まれる。検事がタバコを吸い、判事が火を渡す、「検事と判事が仲がいいなんて!」。ヘンリー・フォンダの陰口。果物屋、警官に食われる。 シドニーと姉、荷造りを喜んで。 刑務所…

映画評『警察官』(1933)

内田吐夢の『警察官』は國民の創生だ。そもそも、警察というのは国家権力という装置によって成立する暴力による抑圧である。そして、それはまさしく近代においてこそ誕生した制度である。この『警察官』において見せつけられるのは、個人として哲学を語り、…

映画評『上原二丁目』

松濤美術館の「「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容」で一際目を引いたのは大辻清司の写真である。ただ書斎のモノを陳列しただけの写真、ただ仏壇で拝む人を撮った写真、ただ商店街を撮っただけの写真。それら何でもないものがどれだけ活気づいてい…

コント『A'』

1 夜 ある夫婦の家 アンバーの明かりがついた部屋はごちゃごちゃと散らかっている。旅行の写真、DVD、テーマパークのグッズその他いろいろ。 夫婦の声が聞こえる。 妻の声「ねえ、早くあの宇宙人を追い出してよ」 夫の声「いや、確かに女だか男だかわからな…

エッセイ『他人と一緒に住むという事』(2023)

Youtubeで筋金入りの映画研究者が撮った、女殺し屋を描いた映画が、いわば60年代ゴダールに「カツゲキ」を身に纏い、スタイルだけのディアオ・イーナン、オリヴィエ・アサイヤスほかの地点に足をつけていたように思えた。たしかに、「形式が内容を決定する」…

エッセイ「ボウイが死んだ日」

たまたま随分早起きだった。寝ぼけ眼にテレビをつけるとデヴィッド・ボウイのMVが流れていた。ぎらぎらとしたペイズリーの衣裳をまとい、そのか細い痩身で歌いあげるStarmanがほとばしる。湧きあがった高揚感にはすぐに霜が降りた。ボウイが死んだ。あのボウ…

映画評『女は男の未来だ』(2003)

通しで見たが何が優れていてどこが面白いのかさっぱりわからない。恋人がレイプされたことを告白すると手を震わせながらコップを口に運ぶ芝居からして心理的で紋切り型と言わざるをえない。日常的な風景という書き割りを模した様式的なほんとうらしい演技が…

エッセイ「憎いもの」

それにしても、いちばん憎いのは自分の人格である。いままで随分損をしてきた。それもこれも、たぶんおそらく、自分の持ち前の能力を過小に評価してきたことに原因があると思う。他人に振り回されて。俺は自分を大切にしてはこなかったのである。だ、それは…

映画評『ファントム・スレッド』(2017)

完璧を追い求める仕立て屋ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が、田舎のウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリーヴス)を見出したところ、モデルとしては抜群だったが実生活では馬が合わず拗れてしまうというもの。 そこで、アンダーソン監督は階段と眼鏡…

映画評『俺たちの血が許さない』(1964)の妙な湿り気

床にばら撒かれたガラスの破片を、黒い背広がかき集める。スター俳優のはずの小林旭がまったく飾らずに、しかし不穏さを伴って現れる。彼はこの夏祭りが催されるぐらいの時期の、湿った暑さに対して、実家にあがろうと真っ黒な靴下さえ脱がずに居心地悪そう…

映画評『飛行士の妻』(1981)

リタ・アゼヴェート・ゴメス監督の『変ホ長調のトリオ』(2022)では、コーヒーを作りに行くとカメラはそのキッチンへとスイッチングすることなく人物がフレームアウトして画面の外で、オフの空間で飲み物を用意するショットが撮られている。 これはむろん、『…