書評『ロードムービーの創造力』

 ニール・アーチャーの『ロードムービーの想像力 旅と映画、魂の再生』(晃洋書房、2023年)は端的に要約すると、『イージーライダー』(1969)を皮切りに、『断絶』(1971)、『バニシング・ポイント』(1971)ほかと二匹目のドジョウを狙った映画が商業的に作られていったことによってジャンルとして内面化されていったロードムービー。著者はこれらの作品が反逆の神話としてのみ意味を限定してしまうのみでは、可能性や意味の展開を殺してしまうことになる。とは言うものの、いささかロードムービーを、ユートピアを目指した冒険による変化と再生、自由の謳歌といった救済劇として扱っているきらいは否めない。

 実際、序章にあるように、『コラテラル』(マイケル・マン、2004)や『ドライブ』(ニコラス・ウィンディング・レフン、2010)はクライム=サスペンス映画であって、例外的に『テルマ & ルイーズ』(1991)のように主人公にとっての男性優位社会抑圧から逃走する旅の意味や自動車の走行と景色の発見があるからこそロードムービーで認識し、成立しうるとした了解を求めている。

 そして、1章、2章で合衆国から中南米を横断しアメリカ大陸の映画を扱ったのち、続く3章の「世界のロードムービー」が取り上げられる。この作品のセレクトが、『気狂いピエロ』(JLG、1965、『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース、1973)、『冬の旅』(アニエス・ヴァルダ、1985)、『菊次郎の夏』(北野武、1999)、『EUREKA』(青山真治、2000)、『10話』(アッバス・キアロスタミ、2002)といずれも映画史に残る傑作で間違いなくロードムービーであることには違いないが、セレクト自体には批評性がなく、救済劇ばかりである。

 それよりも、著者がロードムービーとは何かを明らかにするために披瀝される先行研究や参考資料に俄然関心を抱いた。20世紀の自動車文化の発展は、GM社(ゼネラル・モーターズ)が路面電車を廃止するために会社を買収し、50年代にはアイゼンハウアーがヒットラー主導のアウトバーンに影響をされて高速道路開発に巨額の資金を投じたわけで、つまりはアウトローたちの行動は産業システムに組み込まれているだとか。それ自体はジョセフ・ヒースの『反逆の神話 反体制はカネになる』で言うように、消費主義批判はむしろ消費を産み出しているのだということだ。

 あるいは、フェミニズム映画理論の観点からモリーハスケルの言うバディ映画に『イージー・ライダー』や『断絶』は当てはまる。ノンケの男2人が女をお荷物扱いして、マシンをいじるのに没入したり、スピードを出したり、ラリったりしてみせるいわばホモソーシャルを、ヘテロの男性観客向けに娯楽として提供している。そうした傾向からティム・コリガンはロードムービージャンルそのものを「男性のヒステリー」と糾弾するのだ。そこではもっぱら、家庭、責任、単調な仕事からの逃避行が演じられるにすぎないからだ。そこで、『テルマ & ルイーズ』こそがスティーブン・コーハンとアイナ・レイ・ホークほか多数の論者が評価するように男性中心的であったロードムービーをひっくり返し、『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)、『プリシラ』(1994)、『トゥルー・ロマンス』(1993)にまで可能性を広げていったのだと解説している。

 それを読んでアーチャーはロードムービーとして挙げてはないが、アイダ・ルピノの『ヒッチ・ハイカー』(1953)を思い出した。かの映画では釣り旅を口実にメキシコに妻がありながら女を買いに来た男2人が、連続殺人犯をうっかり乗せてしまうというフィルム・ノワールだ。ここでは、ユートピアは存在しない。その救いのなさが、ロードムービーとして残酷で惹かれるのだが。

 その点、ヴェンダースの『PERFECT DAYS』もそうで、都内をぐるぐるぐるとまわり続け、どこへ行ってもスカイツリーが君臨する消費都市東京での逃げ場のないロードムービー=人生である。サブカルチャーを消費しつづける奴隷の暮らしのようだ。

 いくらでもパクっていただいて構わないが、『路駐』という実験映画を考えたことがある。それこそ、ロードムービーが醸し出す叙情的な旅の風景への対抗する意識から浮かんだアイディアがある、

 停車している自動車の車内からキャメラを構える。そこから見える絵は必然窓枠を通していて絵にならないものも絵になる。

 走っていない自動車から見える光景。張り込みに似ているがそこには何の事件性も存在しない。ただその場が切り抜かれる。ラジオをつけることも可能だし、内装だとか、地域や時事に応じて変えてみるのも面白い。雪が降り積もって何も見えない絵を入れるのもおかしいのではないか。

 それに車種によって映画の表す意味も違ってくるだろう。クラシックカーなら気障なノスタルジーを醸し出すだろうし、月並みな軽自動車なら凡庸な日常を顕在化させるだろう。これこそ、新しいロードムービーなのではないか。

 ちなみに、私自身はその映画を撮るつもりは毛頭ない。自動車はおろか免許さえとっていないからである。