2024-01-01から1年間の記事一覧

映画評『鉄腕ジム』(1942)

しかし、ラオール・ウォルシュほど脚を撮った監督はいない。だからして『鉄腕ジム』などといういかがわしい邦題を『俊足ジム』に改めるべきである。飄々としたエロール・フリンのステップは筋骨隆々の拳闘家たちの大ぶりの拳を最も容易く交わす。その際、編…

映画評『ベルリン 天使の詩』(1987)

・天国より遠いところ 灰色にくすんだベルリンの街が眼下に広がっている。その様子をじっと見守っている天使ダミエルは、家の一軒一軒から地下鉄へ、時には飛行機にまで飛び回り、病める人々の心を安らげるため、そっと肩に手をあてる。心が純粋なものにはな…

映画評『ハドソン川の奇跡』(2016)

「私ではない。あらゆる人々が成し遂げ、生き延びることができたんです」ーー『ハドソン川の奇跡』 絶対的な個人の活躍を疑い、個々が何らかの部品として機能する。飛行機が川に不時着しようと、取り乱すことなく、冷静に職務をまっとうするのが要であり、ア…

映画評『木と市長と文化会館』(1993)

『木と市長と文化会館』は実にたあいない素振りを見せる。 フランスの片田舎に、若い市長が古樹を倒し、村興しのためにメディアテークを築こうと試みている。それに反対する小学校の教師、政治雑誌の編集者がそれぞれ、ほどほどに関わる。 こうした筋書きの…

映画評『加恵、女の子でしょ!』(1996)

何やらパイプを指でいやらしく弄る背広姿の男性教授の後ろ姿が映しだされるところから 『加恵、女の子でしょ!』(1996)は始まる。殺風景なセットに並べられたブラウン管はそれぞれ原色が映しだされている。教授はそのひとつひとつをネチネチと講評していく…

映画評『スターマン』(1984)

ある夜、窓の外には木々を背中に広がる湖がみえる。そこにひとつのきらめく星が落ち、光を放つ。その様子に気づくこともなく、八ミリのホームビデオに映る夫役のジェフ・ブリッジスと自分の姿に目を奪われ、涙する妻ジェニーを演じるカレン・アレンはワイン…

書評『ロードムービーの創造力』

ニール・アーチャーの『ロードムービーの想像力 旅と映画、魂の再生』(晃洋書房、2023年)は端的に要約すると、『イージーライダー』(1969)を皮切りに、『断絶』(1971)、『バニシング・ポイント』(1971)ほかと二匹目のドジョウを狙った映画が商業的に作られて…

映画評『首』(2023)

親分「おい、お前やれよ」 子分「え? おれがすか?」 親分「いいから、やれよ」 子分「じゃあ……」 親分「ばかやろう、何やってんだお前」 北野武はヤラセの人である。いわゆる、ビートたけしとたけし軍団のコントは、親分が子分にわざと馬鹿馬鹿しいことを…

映画評『哀れなるものたち』(2023)

「わたしの身体はわたしのもの」 『歌う女・歌わない女』(1977) 『哀れなるものたち』(2023)に対して覚えるのはノスタルジーである。メジャーの映画会社であるフォックスサーチライトすなわちディズニーが配給している点である。ストーリーは実の子の赤…

映画評『不審者』(1951)

ストーリーは不審者の通報をきっかけに、警官の男が地元の名士の人妻と関係を持つ。男は身体と遺産目当てに名士を罠に嵌めて殺す。男は未亡人と結婚するも、すでに自分の子供を孕んでいることに気がつく。子が産まれて、不倫関係が発展しての謀殺が、世間に…

映画評『パーフェクト・デイズ』(2023)

簡単に言い過ぎかもしれないが、ニュージャーマンシネマというのはナチスによって受けたダメージに対しての作家たちによる批判という側面はあると思う。アウシュヴィッツ以後に詩を書くのと同様、映画を撮ることも野蛮なのだ。ヒトラーが利用した映画メディ…

映画評『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)

この映画の話法として重要なのは何も知らない未熟な少年が、未知の魔法界に足を踏み入れるという点である。 だから、常にキャメラのアングルは観客が魔法界にいるかのようなところに据えられている。真俯瞰から撮られたクレーンのキャメラがランタンの灯った…

映画評『断片的なものの社会学』

「コンビニエンスストアは、音で満ちている」ーー村田沙耶香『コンビニ人間』 岸政彦の『断片的なものの社会学』にあった挿話が非常に映画的だった。ここで言う、映画的とはいわば『ラ・ラ・ランド』(2016)のような、映画狂の監督が、シネマスコープの画角で…

映画評『哀愁の湖』(1945)

普段、映画を見ていて戯けた話だと思うことはあまりない。とは言いつつも、五所平之助の『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933)が伏見晃があまりにも泥臭く通俗的な脚色を施していて、一高生が惚れた旅芸人の女が旅館の亭主の下に身体を預けることになるのではと案…

エッセイ「ひとでなし!」

「愛している人を軽蔑するのは自分を軽蔑するのと同じ」『アメリカの夜』La Nuit américaine(1973年、フランソワ・トリュフォー監督)より フランソワ・トリュフォーが「Salaud 」と揶揄するのを、山田宏一は「人でなし」と訳す。 人を人でなしと罵倒するのは…