映画評『寝ても覚めても』(2018)

Ⅰメロドラマとは

 「メロドラマとはなにか?という問いにひとことで答えることは難しい。が、過剰なる感情のための過剰なる形式であるととりあえず定義しておくことはできるだろう。たとえば愛に身を焦がすひとりのヒロインがいる。メロドラマ映画は、ありとあらゆる技法(カメラ・アングル、フレーミングモンタージュ、照明、衣裳、音楽等)を投入して彼女の思いのたけを微にいり細にいって観客に伝えようとする。伝わったときにはすべてが遅すぎるのだ。しかし、観客はこの哀れなヒロインの恋心を細大もらさず知ることができる。要するにメロドラマとは観客とヒロインとのあいだだけでの感情ゲームであり、観客はヒロインと同じ量の涙を流しさえすれば、それで楽しく映画館を後にできるのである。」(一)と加藤幹朗は『映画のメロドラマ的想像力』に書いている。

 濱口竜介監督の『寝ても覚めても』は後述する作品評の通り、典型的なメロドラマのルールを踏まえてすすんでいく。

演出の類似点、有効性
 どことも知れない川が映し出される折に、橋が顔を出し、次に通天閣が映しだされるから、ここは大阪らしい。そこの美術館で双子の写真を眺めている女性がいる。そこにひょいっと白いシャツを着た男が通りかかり、彼女は着いていく。男は音を立て、上昇する階段すなわちエスカレーターを登り、女も乗る。まだ、男の顔はわからない。
 そうして、ずっと追っていくと、いつしかさっきの川に辿りつく。そこでは少年たちが爆竹で遊んでいる。男が振り返ると、朝子と目が合う。ここでは、スローモーションの中、音楽が流れ、カットバックによって見つめあう事が起きる。カメラが斜めから切りこんでいることによってイマジナリ―ラインに狂いはないのにどこかずれたショットにみえる。

 加藤幹朗は『映画ジャンル論 ジャンル映画史の多様なる芸術主義』にて、『街の灯』のラストの繋がっていない切り返しをこう分析している。「「カットバック(切り返し)とは、ふたりの人物の視線を熱く(自然らしく)つなぐことによって、ふたりの空間的近接性となんらかの精神的持続性を保証する手法である。しかし、この最高のクライマックスにおいて、もしかれらが花の位置のずれた「嘘の編集」によって、そこで幸福な涙による再会をはたしえないことになるとすれば、これは放浪家チャーリーの未来を暗示してあまりある編集技法ということにもなるだろう。」(二)。本作もまたそうした顛末を迎えることが、観客に訴えかける。

 ここで歩み寄っていく様子を足もとにクロースアップして、そのままトラッキングして、次のカットでは2人が抱き合う。しかし、それは花火の音と、炭が割れる音によってかき消されてしまう。
 ここまでが男と女、朝子と麦、あるいは『寝ても覚めても』の馴れ初めである。この一連のシークエンスはいっさいの台詞もなくサイレントで映しだされていくため、観客は息を飲んでこの一目ぼれを眺めるほかにない。このある種過剰でいて、一種の荒唐無稽な演出はまさにかつてのダグラス・サーク木下恵介を思わせる。前者であれば『天はすべて許し給う』の雪が降り積もる中、戸外のカメラがだんだんと家に近づいていき、讃美歌を歌う少年隊が通り過ぎていくと、ジェーン・ワイマンが窓のそばで悲しみをおびたまなざしで外を見つめているショットで、後者でいえば『お嬢さん乾杯!』で原節子佐野周二の元へと駆け寄っていくときの足元のトラッキングはそれそのものだといっていい。

 さて、2018年に日本で公開された3本の映画は同じDNAを移植されたクローンのようにふるまっている。『寝ても覚めても』でバイク事故を起こし重なり合う朝子と麦、『レディ・プレイヤー1』でカーレースのさなか転がりサマンサの尻に文字通りしかれるウェイド、『トイ・ストーリー4』でラジコンカーから振り落とされるカウボーイのウッディが逆にボーの下敷きになるという同一の展開を見せるのである。実に馬鹿馬鹿しい話だが、これはそれぞれの監督が男女の心理的距離感覚を表象するために交通事故を口実にしているのだ。距離とは運動であり、運動とは行動であり、行動とは真実である。

 こうした演出を蓮實重彦は活劇メロドラマ『ナイト&デイ』の批評において、「まず、有効さに徹した演出のおさまる過度の透明性は、しばしば「馬鹿馬鹿しさ」の印象を与えかねない。(中略)にもかかわらず、その過度の「馬鹿馬鹿しさ」が映画の現在にとって貴重なのだといいたいのだが、映画だけに許された爽快な透明性を享受する権利を曖昧に放棄し始めている二十一世紀の人類にそうと説得するのは、容易ではない。」(三)とあるような、映画本来の魅力がこの作品には宿っている。
 この後、二人は交際を始める。『レディプレイヤー1』もそうだったが、バイク事故を起こして、抱き合い、接吻をする。『寝ても覚めても』でも「接触」、「同一方向を見つめる」、「お互いに見つめあう」、「そのまま口に出す」という順に愛の表現が強くなっていく。

 だが、麦はある早朝に「パンを買いにいく」と言い残すと、朝子の前を去っていってしまう。この時、カメラが大きくトラックバックしていき、二度と会えないのかもしれないという錯覚におそわれる。その後退運動はこれまでシャブロルが『不貞の女』で、あるいは内藤瑛亮が『ミスミソウ』において同じように二度と会う事はないであろうという時に使った、今生の別れを描くのには恰好のテクニックである。
 しばらくして、朝子は別の場所で落ち着くことになる。そこで、会ったのは麦そっくりの男、亮平であった。

 彼女はつい、その麦とそっくりの頬を手でなぞる。その感触を亮平は忘れられず、雨粒を拾う。そうして、ようやくあの非常階段で告白するさいに、2人は触れあい、ふたたび抱き合う。ポンポン船がビルのすき間から流れ、またもや川が映しだされる。
 朝子にとって麦は幻想の存在、向こう側の人間として描かれる。北海道という海の向こう側の地からやってきたことや、テレビの画面に映し出されることからもわかるが、イメージの中にいる夢、獏(バク)なのだ。だから、朝子は瓜二つの亮平を出会うと、ラングの『飾り窓の女』のように幻のように幾度となくショーウィンドウに映り込んでしまう。喫茶店で麦が朝子をいきなり連れ出す時、フィルムノワールかのような影と光が交錯していたのにもそういうわけがある。彼女が掴んだのは憧れなのだ。

 加藤幹朗は前掲書にて、メロドラマについてこうも書いている。「前章でも論じた『オズの魔法使』とはひとことでいえば、それはドロシー(ジュディ・ガーランド)の夢の恍惚冒険旅行ということである。(中略)そして、ドロシーが破天荒な夢から覚醒し、「虹の彼方」の魔法の国から実家に帰ってきたことに気づくと「やっぱり我が家が一番だわ!」と力強くいいきって映画を終わらせる。一度、ファミリーを否定することで冒険旅行にでかけたドロシーは、「我が家」の価値観」を再発見することで無事、悪夢の冒険旅行を終わらせる。彼女の夢は現実の澱を洗い流し、現実の感性を再生させる。」(四)とあるように、ここでの唐突な飛躍はむしろ必然であったことがわかる。  

 携帯を捨て、現実といっさい関わりを捨て、車に揺られる。われわれは男女を乗せて漆黒を切りさいて疾走する車を、これまで多くの映画で見てきたが、ハンドルを握っているのは『スターマン』や『暗黒街の弾痕』のように物語の語り手ではない。そのまま彼岸へと連れていかれてしまう。
 かろうじて、朝子は踏みとどまり、海をただ見つめる。美術館で見つめた写真と同じように海を見つめても、その先にはやはり何もない。もしかしたら、彼女は寝ても覚めても隣にいた亮平を思い出したのかもしれない。あるいは、あの川を。朝子演じる唐田えりかの面持ちは途方もない。このただことならない瞬間を補足するために、塩田明彦の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか?』で語られている、こうした焦点を欠いた表情に関しての講義を引用すると、「そのとき、その見つめ返してくる視線を奪ってしまうとどうなるか? 「物としての顔」の究極のかたち、デスマスクこそが、まさに見つめられることなく見つめることができる顔、物としての顔ではないか。そして、その物としての顔から、どこか死の気配やエロティシズムが浮かびあがってくるのは、まさに「死に顔」や「覗き」という、「こちらを見つめてこない顔」と密接に関わっているからではないか。」(五)とある。 

 朝子は家に帰るも、亮平は相手にしてくれない。かつての隣人を尋ねても、ALSに陥り、頼りない視線をお互いに投げかけることしかできない。すべてを失った彼女はなんとかして何かを取り戻そうと、雨の中、飼っていた猫を探しに川辺を歩く。すると、「帰れ!」と、亮平の声が響く。朝子は持っていた傘を放り出し、階段を駆け上がる。

 2人はひたすらに走り続ける。エスカレーターで追ったときのように流されていくのではなく、お互いに自らの意思で。このとき、雨雲によって陰りが降りていた辺りが、嘘みたいに晴れあがっていく。亮平は家に閉じこもる。

 加藤幹朗によると「メロドラマにあってはある種、過剰な翻訳のシステムといったものがいつも作動していて、登場人物の心理とか、登場人物の置かれている状況などは、たとえば階段を降りるといった具体的な目に見えるアクションへと翻訳されずにはおかないようです」(六)という言説はここでも当てはまる。本作は表情や台詞よりも行動によって表現される。例えば、亮平の場合は震災が起きた日に、「列車が止まっているよ」と声をかけてきた青年やショックで座りこんだ女性を気にかけていたことを思い出してほしい。つい拾ってしまうという性格がそうさせたのだ。だいたい、朝子に「麦と似ているから好きになったの」と言われても、食器を洗い続けたようにひたすら優しい人間なのだ。だから、この後、猫をじつは捨てずに家に置いていたことがわかるし、彼女を家に入れてしまう。
 ベランダで亮平は川を見つめている。ニ階へ来た朝子はかつてのように愛されないとわかっていながら、同じようにふるまう。川は流れている、すべてはそのまま続いていく。

 

 

一、加藤幹朗『映画のメロドラマ的想像力』分遊社、二〇一六年、九一頁

二、加藤幹朗『映画ジャンル論 ジャンル映画史の多様なる芸術主義』七六頁 

三、蓮實重彦『映画時評二〇〇九‐二〇一一』講談社、二〇一二年、一一八頁

四、同上二〇五頁 

五、前掲『映画のメロドラマ的想像力』一四頁

六、塩田明彦映画術 その演出はなぜ心をつかむのか?』二〇一四年、イーストプレス、四七頁