映画評『上原二丁目』

 松濤美術館の「「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容」で一際目を引いたのは大辻清司の写真である。ただ書斎のモノを陳列しただけの写真、ただ仏壇で拝む人を撮った写真、ただ商店街を撮っただけの写真。それら何でもないものがどれだけ活気づいていたことか。

 とりわけ、大辻の『上原二丁目』が映しだす風景。広角気味ベビー三脚ぐらいの高さから通学路を路地から狙ったワンカット映像だ。

 児童の騒ぐ声がオフから聞こえたり、小学生が傘でチャンバラしながらフレームインするとてつもないアクションに満ちた瞬間があったかと思えば、タクシーが急に2台も止まったり、サラリーマン四人組がカメラを気にしながら髪をかき上げて歩いてくるという、まさに大掴みに何でもないものを周到に演出されたかのように見えるほどに素描した傑作である。

 といったものの、『上原二丁目』に演出は存在する。それはこのキャメラをこの場所、この時間に置けば、興味深いものが撮れるのだという意図と作為があってこその成果なのだ。

 確かに優れた監督による劇映画は画面がコントロールされている。何が映って、何が映ってはいけないかの選択と排除が行われている。つまりは、拘り、おおらかさ、ずさんさ、優しさ、厳しさがすべて画面に現れる。だから、ウェス・アンダーソン小津安二郎ドン・シーゲルスタンリー・キューブリックの映画に息苦しさを覚えるのはすべてが監督の意図通りに撮れてしまっているがゆえの不自由で退屈な時間拘束の体験となってしまうからである。

 まぎれもない時間芸術である映画において、鑑賞者が自由を享受できる、開放的な体験。いつでも見るのを辞めてもいいし、いつ見てもいい映画。断片においてこそ価値のある映画。ふと覗くと見える窓のように。それは、リュミエール兄弟、マイケル・スノウ、アンディ・ウォーホルシャンタル・アケルマン、ローラ・マルヴィとピーター・ウォーレン、マルグリット・デュラスが作った作品はそうだといえるだろう。無意味なはずの時間が画面として現前する。政治的な「運動」の記録としてのフィルム=シネマへの可能性を感じる優れた、オールタイムベストである。