エッセイ『他人と一緒に住むという事』(2023)

 Youtubeで筋金入りの映画研究者が撮った、女殺し屋を描いた映画が、いわば60年代ゴダールに「カツゲキ」を身に纏い、スタイルだけのディアオ・イーナン、オリヴィエ・アサイヤスほかの地点に足をつけていたように思えた。たしかに、「形式が内容を決定する」、すなわち、ハードボイルドという禁欲的なジャンルが「映画らしさ」を担保しており、たとえ演技が抑制されていたとしても、限られたロケーション、厳格な固定ショット、アクションつなぎといった古風な記号的な演出の数々が統辞してひとつの「映画」を産みだしている。浮かんできたのは、せんだいのメディアテークの上映会で『TOCHIKA』の監督松村浩之が話していた「趣味としての映画に、映画グルメの人たちだけの映画」という言葉だ。

 私が思うに、映画らしい映画、つまりは映画史を露骨に参照して作られた映画は、近親相姦によって産まれたおぞましい奇形児だとしか思えない。その醜悪さを愛でるのはグロテスクであり、キッチュであり、スノッブであるということに無自覚でいるというのは、映画史を断絶させてしまうんでないかと脳が震える。たとえば、ウェス・アンダーソンスティーブン・スピルバーグはたしかに演出力という観点から言えば、まともなほうではあるが、そこに未来はない。

 その点、『他人と一緒に住むという事』(2023)はいささかも映画らしくない。あらすじは、大槻というソーラーパネル会社で財産を成した男のところにさまざま人物が転がり込んできて、奇妙な共同生活を送ると言う話だ。このストーリー自体はノーベル文学賞を受賞した劇作家ハロルド・ピンターが脚本を書いた『召使』(1963)、『できごと』(1967)、あるいはピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』(1970)といった作品が浮かぶが、嬉しいことに、これらの映画とはまるで似ていない。凝ったキャメラワークや奇抜な劇伴といった凝った演出が使われるわけではなく、あくまでもぶっきらぼうだが、自然で無理のないカット割りで物語が語られる。

 たしかに、この映画は基本的に動作や間や音といった映画の空間上の立体感、奥行きが豊かに使われた作品ではなく、台詞を話す俳優が主体の劇映画である。

 この映画の俳優はうまい具合に、もちろんその当人とあったことはないが、ある種のリアリティをもって役を生きていると思った。それは露骨に感情を抜いて棒読み演技をさせるだとか、過剰に役を作って顔で演技するだけの映画とは異なり、その実在感、存在感に魅了された。

 むろん、それが活きていたのはやはり脚本の妙があると思う。人物のパワーバランス、権力関係が、上がったり下がったりしていくのが重なるのが痛快なのだろう。たとえば、うだつのあがらない俳優志望の中年の男が同棲している女に本腰を入れる気がないかと聞かれて逆切れしたかと思えば、画家志望の若い夢追い人に向かって見下した態度をとって仕事しろよと説教を垂れながら、女を自らの傍らに寄せるところなんぞ、くすぐられた。ほかの登場人物もたった1年ぐらいの物語のはずなのに、こういろいろな人物が出たり入ったりするのは実に痛快である。

 そして、大槻の家から1人、また1人と谷保駅から出ていくようすが撮られる。この演劇的な見せ方がむしろいい。そして、どのそれぞれの登場人物に焦点が合う複眼的な、感情移入を1人の人物にして見るよりも、全体の芝居そのものを見ることができるから、これが至極いい。見る価値があった。

 ニコラス・レイの『生まれながらの悪女』(1950)なんかは、悪い女がいて大富豪、小説家、画家とよこしまな関係を築いていくのを強固な3幕構成で、て、人物が勢ぞろいするように第一幕は晩餐会、第二幕は個展、第三幕は舞踏会と登場人物が板付きになってアクションが起こるというもので、ずっとドラマは女中心に物語の軸があるからどうも堅苦しい。レイは演劇人だが、いまの視点から見ると、やはり映画の古典の域にいる。

 最後に余談だが、『他人と一緒に住むという事』は、映画館にジャン・ユスターシュ特集のポスターが、アパートの一室に『最も危険な遊戯』とともに『殺人遊戯』(1978)のDVDが置かれていようと、それは青山真治が『東京公園』(2011)で加藤秦やミケランジェロ・アントニオーニへの目配せと違い、なんら映画通向けのアピールではない、ただの装飾として機能している点も評価すべきだろう。映画は映画にのみ閉ざされてはいないのだ。