映画評『ハドソン川の奇跡』(2016)

「私ではない。あらゆる人々が成し遂げ、生き延びることができたんです」ーー『ハドソン川の奇跡

 

 絶対的な個人の活躍を疑い、個々が何らかの部品として機能する。飛行機が川に不時着しようと、取り乱すことなく、冷静に職務をまっとうするのが要であり、アテンダントは「頭を下げて」というフレーズを呪文のように唱え、救急隊が凍えそうな被災者に帽子を被せてやることによって、淀みのないあるがままの現実が広がっているかのように見える。

 問題は、その歯車が噛み合っているか否かがすべてなのだ。だというのに、機長はあらゆるメディアから注目され、称賛される。そのまやかしめいた神話化によって、惑わされた彼の眉間にはスティグマが刻まれることになる。見ている事が信じられなくなった機長は、鏡へ近づき内省し、ついには墜落の瞬間を幻視してしまう。

 一種の失明状態に陥った彼が頼りにするのは声である。しきりに妻が副操縦士に連絡し、自らの実在を確認する。その最たる場面は、フライトシュミレーションによる公開審問だ。機長が不時着した判断は誤りだったのではないかと訴えを起こされ、本当に墜落するほど危険な状態にあったのかを当時の状況を再現して是非を問う。これまで、リアルな不時着のスリルに落ちてくれるなよと思っていた観客が、シュミレーションの着陸の失敗を望むことになるという絶妙な構成のサスペンス。フライトレコーダーの音源を頼りに、事件を追想させ、これまでコックピットから捉えられていたカメラから撮られた着水が、今度は俯瞰から飛行機そのものが飛沫をあげて停まる様子が客観的に描かれる。

 機長の迷走とともに曖昧となったイメージがようやく事実として露呈したのだ。それは最早、飛行機が落ちることを淀みなく描いてきた映画が、言語の前で敗北してしまったことを示しているのではないか。古典的なアトラクション的に没入して見る見方、そして現代的に落ちるシーンを分析するという読む見方が混在しており、濁っているのだ。その濁りはクラシカルなシネマの死なのである。見ることよりも読むことのほうが優位に立っている。イーストウッドは主流の解釈としては古典的な映画の継承者として評価されているわけだが、むしろ現代的な撮り手であるとここではとりあえずの仮説を立てておこう。さもなければ、それこそ古典的な価値観でイーストウッドの映画を評価した場合、『運び屋』の10分間ぐらいの照明が毎カット変わるほどに杜撰であるということに耐えられず、劇場を後にしてしまうだろう。ハリウッドの後継者などいないのだ。