映画評『ベルリン 天使の詩』(1987)

・天国より遠いところ

 灰色にくすんだベルリンの街が眼下に広がっている。その様子をしっと見守っている天使ダミエルは、家の一軒一軒から地下鉄へ、時には飛行機にまで飛び回り、病める人々の心を安らげるため、そっと肩に手をあてる。心が純粋なものにはなんとなくその存在が察せられるものの、一切の接触が絶たれていて、孤独感を覚える。

 天使の視点で描かれた、まさにカメラが宙を漂うように動き、色彩のない黒白の画面に映った人々のこだまする心の声を聞く。そんな夢のようなまなざしで世界を見ることができるなんて。だが、ダミエルは違った。

 ある日であった曲芸師のマリオンの空中サーカスを見てしまい、思わず人間になって触れ合いたいと思うようになる。これまで空から人類を見渡していた天使が、客席から彼女の姿を見上げてしまったことによって、新たな視点を得てしまったのである。

 ダミエルが天使から人間に転生したその時、キャメラは目の高さにまで降り、モノクロからカラーへ一気に豊かになった世界を体感する。彼がその喜びに大いに浸り、はしゃぎまわっている姿を見ると、当たり前のようでいて当たり前ではない美しさに思わず目覚めてしまう。

 ヴェンダースはそもそも『まわり道』において、元ナチス党員を咎める青年が登場するようなシーンを演出してはいるが、たとえばファスビンダーストローブ=ユイレ、クルーゲ、ジーバーベルグのように真正面から政治、社会、伝統的な文学と向き合うことを避けている。それは蓮實が73年の世代と括って宣伝したベルトルッチ、シュミット、エリセ、イーストウッドアンゲロプロスと比べてもそうだ。だからこそ、オリジナル脚本で国際的な映画製作を可能にし、作家としての地位を確立しているのだろう。

 今更『PERFECT DAYS』を批判しても手遅れで、そもそもが戦後アプレゲールブルジョワ的な感性の芸術家なのである。ヴェンダースは画家を目指し、パリに留学し、映画開眼したという出自を持つ。

 ちなみに、柄谷行人は『闘争のエチカ』序文で『ラストエンペラー』と同じく籠の中の鳥が外に放たれ同一化してしまうのがこの『ベルリン 天使の詩』だとする。自分が天使になったようだと感じたと柄谷は書き、他者と触れる必要性を主張する。柄谷工務店の家柄の産まれである彼が、同じく富裕層出身のベルトルッチヴェンダースが描く半自伝的なストーリーにシンパシーを感じてしまったのか、いささか穿ったロマン主義である。だが、人々は必ずしも天使ではないのだ。