エッセイ「ボウイが死んだ日」

 たまたま随分早起きだった。寝ぼけ眼にテレビをつけるとデヴィッド・ボウイのMVが流れていた。ぎらぎらとしたペイズリーの衣裳をまとい、そのか細い痩身で歌いあげるStarmanがほとばしる。湧きあがった高揚感にはすぐに霜が降りた。ボウイが死んだ。あのボウイが。私がいちばん好きだったのはChangesだった。つまりは彼がつねにアルバムのコンセプトに合わせてスタイルを刷新していくのがたまらなくて、それを予告するような詩がなんだかマニュフェストのようで憧れたものだ。その人が死んだ衝撃。続いて、プリンスも亡くなった。それもショックで、立川の映画館で追悼上映に駆けつけたものだ。

 幼いころ、短冊に「じいじが死なないようにお願いします」と書いた。むろん、祖父は喜んで小遣いをくれた。かつて校長であり神父であり画家であった祖父はミスタードーナツを「点心屋」だと勘違いしていた。祖父はラーメンとか炒飯を置いていてそればかり食べていたからだ。本来はドーナツ屋だと死ぬまで気づかなかっただろう。そのすぐあとに帰らぬ人となったからだ。身近な人の死をそれぐらいしか体験してこなかったから、本当にショックだった。しばらく口数が減ったような覚えがある。

 そして、本とかDVDの貸し借りしたり、SF小説の感想を交換していた人に、つい、CDを渡してしまったものだ。おそらく、聞いてもらえなかったのか、それとも聞いたが刺さらなかったか。外宇宙からのシグナルは地球人にはわからないんだろう。

 自分にとってのスターが同じ年に2人も立て続けに死んだのを経験したこともあって、無感動な情緒にいまだに囚われているのが正直な話だ。