映画評『飛行士の妻』(1981)

 リタ・アゼヴェート・ゴメス監督の『変ホ長調のトリオ』(2022)では、コーヒーを作りに行くとカメラはそのキッチンへとスイッチングすることなく人物がフレームアウトして画面の外で、オフの空間で飲み物を用意するショットが撮られている。

 これはむろん、『飛行機の妻』(1981)、『満月の夜』(1984)等にも見られるロメール流の演出を踏襲しているのである。

 そして改めて、シネマブルースタジオで見直したエリック・ロメールの『飛行士の妻』で言うと、洗面所に飲み物をマリー・リヴィエールが取りに行くようすをワンルームの居間からキッチンの入り口だけ映して入っていく姿を見せて、音で水道管が壊れているというのを示すのに使われている。

 これは要は、絵だけ構築するアニメあるいはテレビやYouTubeと違って文字情報でなく、視覚的=聴覚的=光学的体験である映画性を担保する生々しさなのである。

 その身体性が発露しているのは、マリー・リヴィエールとフィリップ・マルローの膝を使った芝居のつけかたである。この映画で2人はベッドの上で並んで座って愛してるだの、愛していないだのと陳腐極まりない会話をするのだが、その時やたら違いの膝を擦ったり、抱きついたり、手を回したりする。

 かつて、『クレールの膝』(1970)という外交官の男が10代の女の膝を触りたいがために悶々とするという、変態極まりない映画を撮っただけはあるが、なぜこの作品においてもこの芝居をとったのかはわかるはずもない。

 だが、この映画のいささかクラシカルな技巧じみた撮り方はどうも首をかしげざるをえない。

 いくつか例を挙げると、フランソワが恋人のアパートを去り手前から奥へとハけていくと、画面手前にタクシーが入ってきてクリスチャンが降りて入れ替わりになるというワンカット。もう一つは、カフェでフランソワが張り込みをしていると、窓の外にアパートから出るクリスチャンが映るという長回し。これらはうまくいってるんだがないんだかよくわからない。つまり、見せ方としていかがなものかと思うのだ。たしかに、ヒッチコックみたいに細かいカット割りで見せるのは違うとは思うが、もっと俯瞰の絵とか、鏡の反射とか使ったほうが良かったんではないかと疑問符が浮かんだ。

 さて、この映画はいくつか映像上辻褄が合わないところがある。まず、カップルを尾行しているときに晴れた公園から雨が降った後で路面が濡れた舗道の前にあるアパルトマンの前の通りへと歩いていくコンテュニティがある。これははっきり言って、杜撰であるがゆえに面白い。公園のシーンでストロボ写真を撮っているときに「ここだと光量が足りないから露出が…」というやり取りがあるにも関わらず、ピクニック日和の天気からいきなり雨が降った後に天候が様変わりしており、時間の連続性が破綻している。当然撮影を別の日に撮ったんだろうが、あからさまに違うので笑える。

 それと、ストロボ写真が明らかに演者が撮っていない構図がちゃんと決まった写真で、そういうところを偽るのが『アストレとセラドン』(2007)にも通底する出鱈目なところだ。

余談だが、アンヌ・ロール・ムーリーが紺のラコステのポロシャツを着ているのが今回の鑑賞で把握できた。