映画評『断片的なものの社会学』

 「コンビニエンスストアは、音で満ちている」ーー村田沙耶香コンビニ人間

 


 岸政彦の『断片的なものの社会学』にあった挿話が非常に映画的だった。ここで言う、映画的とはいわば『ラ・ラ・ランド』(2016)のような、映画狂の監督が、シネマスコープの画角で、色数を絞ってカラフルな色彩に統一し、高揚感をもたらすような劇伴が昂るととともに、現実から飛躍した幻想的なシーンが広がるというポップな意味ではない。そうではなくて、確かに人工的にある程度統御されてはいながらも、自然主義的な、ドキュメンタリー的な、ダイ・ヴォーンに満ちたものか、あるいは映画というメディアの可能性に賭けた実験的なものを指して、ここではとりあえず「映画的」と呼ぶのだが。

 『断片的なものの社会学』に収録されている「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」で、仮構されるストーリーが、「映画的」なのだ。とある夫婦が長い旅行に行くので、防犯のため留守の間に録音した生活音を流しっぱなしにしておく。夫婦がそのまま帰ってこなかったら、あるいは帰宅してスピーカーのスイッチを切ってほっと安堵するのか、部屋に残響するその生活音を聞いた人はどう思うか、という思考実験的なエッセイ。

 私には、ほとんどマルグリット・デュラスジャン=クロード・ルソーシャンタル・アケルマンアッバス・キアロスタミ、大辻清司のような映像が浮かんだ。無人化された居間にしみいる音、音、音。近くに学校があったとしたら、チャイムの音を拾ってしまったせいでおかしなタイミングで流れて滑稽かもしれない。音楽学校があれば歌やピアノの音が聴こえるかもしれない。雨が降れば雨もないのに画面中では窓にうちつける雨音がして不気味かも。街宣車が流す騒音を拾っていたら。そういったロケーションによって変わるのでも面白いし。夫婦とあるけれども、さまざまな夫婦のかたちがあるわけで、職業も在宅もあるし、もういくらでもやりようがあるではないか。

 近々、もう少し暮らしをいまよりも余裕がもてるようにする予定があるので、そしたらばこの映画に着手してみたい気持ちが非常に強い。