映画評『ベルリン 天使の詩』(1987)

・天国より遠いところ

 灰色にくすんだベルリンの街が眼下に広がっている。その様子をしっと見守っている天使ダミエルは、家の一軒一軒から地下鉄へ、時には飛行機にまで飛び回り、病める人々の心を安らげるため、そっと肩に手をあてる。心が純粋なものにはなんとなくその存在が察せられるものの、一切の接触が絶たれていて、孤独感を覚える。

 天使の視点で描かれた、まさにカメラが宙を漂うように動き、色彩のない黒白の画面に映った人々のこだまする心の声を聞く。そんな夢のようなまなざしで世界を見ることができるなんて。だが、ダミエルは違った。

 ある日であった曲芸師のマリオンの空中サーカスを見てしまい、思わず人間になって触れ合いたいと思うようになる。これまで空から人類を見渡していた天使が、客席から彼女の姿を見上げてしまったことによって、新たな視点を得てしまったのである。

 ダミエルが天使から人間に転生したその時、キャメラは目の高さにまで降り、モノクロからカラーへ一気に豊かになった世界を体感する。彼がその喜びに大いに浸り、はしゃぎまわっている姿を見ると、当たり前のようでいて当たり前ではない美しさに思わず目覚めてしまう。

 ヴェンダースはそもそも『まわり道』において、元ナチス党員を咎める青年が登場するようなシーンを演出してはいるが、たとえばファスビンダーストローブ=ユイレ、クルーゲ、ジーバーベルグのように真正面から政治、社会、伝統的な文学と向き合うことを避けている。それは蓮實が73年の世代と括って宣伝したベルトルッチ、シュミット、エリセ、イーストウッドアンゲロプロスと比べてもそうだ。だからこそ、オリジナル脚本で国際的な映画製作を可能にし、作家としての地位を確立しているのだろう。

 今更『PERFECT DAYS』を批判しても手遅れで、そもそもが戦後アプレゲールブルジョワ的な感性の芸術家なのである。ヴェンダースは画家を目指し、パリに留学し、映画開眼したという出自を持つ。

 ちなみに、柄谷行人は『闘争のエチカ』序文で『ラストエンペラー』と同じく籠の中の鳥が外に放たれ同一化してしまうのがこの『ベルリン 天使の詩』だとする。自分が天使になったようだと感じたと柄谷は書き、他者と触れる必要性を主張する。柄谷工務店の家柄の産まれである彼が、同じく富裕層出身のベルトルッチヴェンダースが描く半自伝的なストーリーにシンパシーを感じてしまったのか、いささか穿ったロマン主義である。だが、人々は必ずしも天使ではないのだ。

映画評『ハドソン川の奇跡』(2016)

「私ではない。あらゆる人々が成し遂げ、生き延びることができたんです」ーー『ハドソン川の奇跡

 

 絶対的な個人の活躍を疑い、個々が何らかの部品として機能する。飛行機が川に不時着しようと、取り乱すことなく、冷静に職務をまっとうするのが要であり、アテンダントは「頭を下げて」というフレーズを呪文のように唱え、救急隊が凍えそうな被災者に帽子を被せてやることによって、淀みのないあるがままの現実が広がっているかのように見える。

 問題は、その歯車が噛み合っているか否かがすべてなのだ。だというのに、機長はあらゆるメディアから注目され、称賛される。そのまやかしめいた神話化によって、惑わされた彼の眉間にはスティグマが刻まれることになる。見ている事が信じられなくなった機長は、鏡へ近づき内省し、ついには墜落の瞬間を幻視してしまう。

 一種の失明状態に陥った彼が頼りにするのは声である。しきりに妻が副操縦士に連絡し、自らの実在を確認する。その最たる場面は、フライトシュミレーションによる公開審問だ。機長が不時着した判断は誤りだったのではないかと訴えを起こされ、本当に墜落するほど危険な状態にあったのかを当時の状況を再現して是非を問う。これまで、リアルな不時着のスリルに落ちてくれるなよと思っていた観客が、シュミレーションの着陸の失敗を望むことになるという絶妙な構成のサスペンス。フライトレコーダーの音源を頼りに、事件を追想させ、これまでコックピットから捉えられていたカメラから撮られた着水が、今度は俯瞰から飛行機そのものが飛沫をあげて停まる様子が客観的に描かれる。

 機長の迷走とともに曖昧となったイメージがようやく事実として露呈したのだ。それは最早、飛行機が落ちることを淀みなく描いてきた映画が、言語の前で敗北してしまったことを示しているのではないか。古典的なアトラクション的に没入して見る見方、そして現代的に落ちるシーンを分析するという読む見方が混在しており、濁っているのだ。その濁りはクラシカルなシネマの死なのである。見ることよりも読むことのほうが優位に立っている。イーストウッドは主流の解釈としては古典的な映画の継承者として評価されているわけだが、むしろ現代的な撮り手であるとここではとりあえずの仮説を立てておこう。さもなければ、それこそ古典的な価値観でイーストウッドの映画を評価した場合、『運び屋』の10分間ぐらいの照明が毎カット変わるほどに杜撰であるということに耐えられず、劇場を後にしてしまうだろう。ハリウッドの後継者などいないのだ。

映画評『木と市長と文化会館』(1993)

 『木と市長と文化会館』は実にたあいない素振りを見せる。

 フランスの片田舎に、若い市長が古樹を倒し、村興しのためにメディアテークを築こうと試みている。それに反対する小学校の教師、政治雑誌の編集者がそれぞれ、ほどほどに関わる。

 こうした筋書きの明快さが絡んでいるのか、どちらかと言えばドキュメンタリーのような、あっけらからんとした喜劇性に包まれている。

 市長とその妻が、何の脈絡もなく、辺りをうろつき始める。草花や動物と戯れる様子には、編集で取ってつけられたかのようなクローズアップが挿入されているし、いつの間にか棒切れをふっていたりだとか、野放図だ。

 かと思えば、この映画に出てくる女性たちは、逆光を受け止めるような所に、必ずいて、その長い髪をヴェールとして纏っている。ほんのささいなことながら、紛れもなく、演出が施されているのだ。

 本作で強調されるのは、そうした自然だけではない。欧州的な建築も問題として提起されており、風に揺れる木々に対して、灰色の教会が堂々と建っているようすが映る。ロメールの監督作ちは、パリの再開発地区をロケーションに採用した『友だちの恋人』もあるように、都市論的な側面がある。長編デビュー作の『獅子座』は石畳みの町パリを、ペトロつまりは「石」を語源に持つピエールという名の主人子を彷徨わせたのは偶然ではないだろう。いわば、虚構性と記録性が混在しているのだ。

 その最たる場面は、偶然にも、教師の娘が市長を捕まえて、文化会館の是非を問い正し、まくしたてるシーンだろう。「自然を残して、人を呼べばいいじゃないか」。

 市長はその聡明さに心打たれ、「なるほど、レジャー施設にしてしまえばいいんだな!!」と結局、メディアテークの建設を諦める。いわば、これこそが、マクガフィンだ。

映画評『加恵、女の子でしょ!』(1996)

 何やらパイプを指でいやらしく弄る背広姿の男性教授の後ろ姿が映しだされるところから 『加恵、女の子でしょ!』(1996)は始まる。殺風景なセットに並べられたブラウン管はそれぞれ原色が映しだされている。教授はそのひとつひとつをネチネチと講評していく。それは典型的なミソジニーに満ちたセクシスト的な陳腐な美的感覚で、女性の学生が作った作品は露骨に「女らしさ」や「エクスタシー」を表現しろと猫撫で声で指導し、男性の学生にはまともな作品を作らないと女に置いてかれるぞと発破をかける。その上、男性教員は隙あらば女性の肩をさすったり、チュパチュパ吸った吸い口を触った手で頬をなぞるのだ。そうした醜悪な様子はブラウン管にも投映され、グループショットの中央にいる教員がほとんどセクハラな講釈を観客に向かって垂れ、周りにいる受講生たちはあからさまに嫌悪感を示す。

 本作では、価値判断を下す側にいるのは常に男性である。彼らは教授、ギャラリストパトロンといった地位にあり、容赦なく、作品というよりも、加恵に対して評価を下す。亭主に子供を預けると何事だとか、女の作品だなと全て女性であるという生物学的な偏見が先行しており、まともに扱われないのだ。要は、表現だ、自由だとうたわれているがただ男の欲望を満たしているだけなのだ。おそらく、出光の意識には、美術評論家東野芳明と結婚し別れたのち、急死を遂げた姉が、男性中心社会に実質的に殺されたのだというのがあって、ここまでグロテスクに撮ったのだろう(三木草子、レベッカ・ジェニスン編『表現する女たち』)。このシーンには主人公である加恵もいるが、通常の劇映画のように彼女の視線に従って物語=映像が切り返しによって語られはせず、メタレベルで観客がこの男性中心的な社会がいかに構築されているかを読んでいくように促していると言える。

 場面は変わって、加恵は同じく美大生の夫と同棲(夫婦別姓なので籍は入れていないとみられる)しながら二人展に向けてキャンバスに絵を描いている。最初は互いに黙々と塗り進んでいっているように見えるが、段々と日数が経つにつれ、加恵は家事を任されるようになる。そのため、男のキャンバスのほうが比率が増して画面の半分以上を占め、それに伴って加恵のアートはどんどん領域を狭めていく。部屋も瓶ビールやケンタッキーフライドチキンの箱といった男性の嗜好品で埋め尽くされていく。アニエス・ヴァルダは『歌う女・歌わない女』の劇中歌「パパ・エンゲルス」で「エンゲルスは言いました、男はブルジョア、女はプロレタリア」と告発したように、結婚生活によってパーソナルな自分というものを段々と奪われていくのである。結局、二人展ではまともに作品を発表できず見学者たちからは嘲りの対象となる。

 加恵が受けるこうした抑圧は子供の頃から親に擦り込まれたものだと述懐する。画面内に存在する白い布、ブラウン管のテレビ、皿にその時の回想場面が映し出される。ここで気付くのは、もともと私たち人間は産まれた時は白紙であるということだ。本作は作者自身がボーヴォワールの『第二の性』にインスパイアされて作られたというように、まさに「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というのを前衛的な画面構築によって表象している。

 そうしたフラストレーション、夫を家から締め出し、アーティストとして個展を開くようになった加恵の作品は濃い赤を基調としている。加恵は自分の色で、自分を表現する権利を再び手にしたのだ。

 

 

映画評『スターマン』(1984)

 ある夜、窓の外には木々を背中に広がる湖がみえる。そこにひとつのきらめく星が落ち、光を放つ。その様子に気づくこともなく、八ミリのホームビデオに映る夫役のジェフ・ブリッジスと自分の姿に目を奪われ、涙する妻ジェニーを演じるカレン・アレンはワインをグラスに注ぐ。映画を見る女性が涙を流す姿を捉えたこの場面の配光は、暗く抑えた影のなかから彼女の眩い瞳の輝きが漏れている。彼女は亡くなった夫の姿に思いを馳せているのだ。すると、庭に光る物体が現れ、ゆるやかな浮遊感のある主観のショットでゆっくりと家のなかへと入りこんでいく。しどけない姿で寝ていたアレンは気配に気づくと、目の前で赤ん坊が徐々に成長していき夫の姿へと変身を遂げる。あまりのできごとにアレンは手に握った拳銃を落としてしまい、それを拾われてしまう。夫を形態模写した「スターマン」は奇態な恰好で銃を構えるや、国連の異星人へと向けたスピーチをそのままに発声する。アレンはそのまま気絶してしまう。メロドラマは脚本の構成上、「知識の不一致 [1]」が起きる。観客は、研究員たちのシークエンスから調査目的でやってきた友好的な異星人であると知りながら、カレン・アレンにとっては未知の存在として現れた既知の存在との間でどう揺れ動くかのサスペンスが作られている。

 この『スターマン』の一連のシークエンスは台詞らしい台詞のないままに始まっている。それはカーペンターの作品を見ていればわかるように、すべては寡黙な画面から導かれている。まず、このアレンの部屋は暖炉の火がゆれ、琥珀色にあたりを染めている。この明確に色彩の構成を意識した撮影と照明は、ラストのシーンから予告あるいは逆算したかのように非常に計算されている。カレン・アレンはスターマンであるジェフ・ブリッジスを乗せ、マスタングを走らせる。スターマンを恐れる彼女はハンドルを握ったまま目を合わさないのだが、その不和は時間が経つにつれて解消されていくだろう。そのうちに夜になると、赤いネオンの光が時折射しこむ。やがて道中、宇宙人を捕獲しようと動く警察の検問に正面から突っ込み、あたり一面を焔の海へと変えてしまい、その中からブリッジスが傷ついたアレンを抱えて現れるショットが撮られている。そうした、誰もが知る聖人をベースにしたストーリーは映像に奉仕する。

 これは出エジプト記を描いた『十戒』The Ten Commandments(一九五六年、セシル・B・デミル、)の神の力によって海が割れる場面のような、いささか冗漫なシーンにも演出できたろうに、自動車が追突してからほんの数ショットで収め、神秘的で印象深くなっている。「神の偉大さ」を示した『十戒』は必然的に映画よりも特撮が前景化し、神秘よりも合成ばかりが際立ったのは言うまでもない。このシーンは彼女らが自動車を走らせる一連のシーンよりもはるかに短いのだ。こうして光の細部が一貫して寡黙に語られているのは練られた脚本とそれに見合った演出意図をスタッフ全員が意識しながら制作した結果である。そうした技術の面でもさることながら、自然の光までもが映画を祝福している。

 モニュメントバレーに広がる雲を背に駆けるトラックの荷台で揺られる二人を包む淡い風景がある。この荷台にはネイティブ・アメリカンの女性が赤子を連れており、その子を一緒に見たスターマンはアレンに、ブリッジスとの間に子供がいたのかどうかと聞くと、彼女が不妊だったことを教える。これがラヴシーンの伏線となっているのは指摘するまでもないが、この古びたトラックが象徴的なのは、この映画で登場した乗り物は宇宙衛星、空軍機、ヘリ、マスタング、バス、パトカー、トラック、オールドカー、列車、キャデラックといったいかにもスピードのあるものから緩慢なものまでさまざまななかで差異をもって、最も疾走感に溢れているからだ。それは疾風が揺れる荷台の上にいる彼女たちを吹き抜けるようすはまさしく感動的だろう。のちに夕陽が彼らの顔を照らすショットも撮り直しの効かない見事な場面だ。この演出には西部劇の駅馬車の記憶がまざまざと生きている瞬間である。ロードムービーとしては宇宙から何万光年も旅をしてきた異星人がさらにアリゾナを渡るというとてつもない超長距離移動を行っているが、ニール・アーチャーが『ロードムービーの想像力』(2022年、晃洋書房)でピックアップした映画群がいささかユートピア的な救いを求めていたのに対し、『スターマン』は宇宙人の宿した子供に、つまりは家庭に希望が託されている。「男性のヒステリー」と糾弾されもするロードムービーがメロドラマとして転化しているのだ。

 もし、『スターマン』を大衆的かつ言語的に語るとすれば、カレン・アレンが宇宙局研究所の人間にスターマンに敵意はないということを伝えられ、涙を流しながら駆けつける場面を作劇するだろう。むろん、洗練された『スターマン』は光のなかでジェフ・ブリッジスが死んだ鹿を甦らせる様子をカレン・アレンが目撃してから、以前の死んだ夫のイメージに引きずられ怯えきっていた態度を一変させている。彼女は違う新たな男を愛し始めたのだ。

 映写機のホームビデオを見ていたカレン・アレンは光を導く素養に恵まれていたのだといえよう。あの瞳がひときわ記憶に残るアレンが、演じるというよりもその存在から主題そのものを体現しているといっていい。その彼女が拳銃を握る場面が本作では二度反復されることに注目しよう。彼女はスターマンを虐げる猟師たちに向かって何のためらいもなく威嚇発砲し、すぐさま助けだす。この威勢のいい身振りは幾度となく見た光景である。それは『要塞警察』のローリー・ジマーが傷ついた肩をものともせずに引き金を引く場面に始まって、『ハロウィン』(一九七八)の包丁を握ったジェイミー・リー・カーティス、『ニューヨーク1997』(一九八一)のエイドリアン・バーボー、『ゼイリブ』(一九八八)のメグ・フォスター、『ヴァンパイア』(一九九八)のシェリル・リーと枚挙に暇がないほどに現れる姿である。彼女らの飾り気のない姿は凛々しいことこのうえない。それはよく指摘されるホークス映画の女性像とも異なるだろう。

 ほか、近年の男性監督による強い女性を描く傾向がその実は、J・キャメロンが『エイリアン2』Aliens(一九八六)から『ターミネーター2』Terminator 2:Judgement Day(一九九一)、R・スコットが『テルマ&ルイーズ』Thelma and Louise(一九九一)から『G.I.ジェーン』(一九九七)へと、それぞれの作家が徐々にその題材を「大きな物語」へと前景化し、女優の身体そのものをスペクタクルとして消費する過激さ[2]と無縁に、傍系的なエピソード足り得ているからだ。

 カーペンターの場合、『エスケープ・フロム・LA』(一九九六)、『ゴースト・オブ・マーズ』(二〇〇一)と二作続けて出演したパム・グリアでさえ、実質的に性転換したキャラクターを演じており、彼女の豊満な肉体を性的にエクスプロイテーションさせていた作品群のパロディを演じさせているのだ[3] 。それにこの『スターマン』に登場する協力的な研究員チャールズ・マーティン・スミスがいつも葉巻を吸おうとするも止められて吸えないという滑稽なギャグの繰り返しが、命令に背いて二人を逃がした責任を咎める将軍のリチャード・ジャッケルに、満面の笑みで煙を吐きつけるヒロイックな行いへと転化される様子を見ればよい。それはカート・ラッセルが演じてきたキャラクターの数々とも共有する動作なのはもちろんのこと、誰にも平等に与えられた幾らでも代替の効くアクションなのである。だから、カーペンターを論じるとなると「アウトロー[4]」の一語を用いて説明せざるにはいられなかった評論の数々は疑わねばならないだろう。そこにあるのは身振りの発見なのだ。

 警察署を包囲したギャング団を相手に、警察官と秘書と悪漢が手を組み、退ける『要塞警察』。署内は電力を絶たれ、薄暗い。悪漢ダーウィン・ジョストンは口癖の「煙草はあるか」"Anybody got smoke? "と何の気もなしに言う。女秘書ローリー・ジマーは黙ったまま煙草を咥えさせてやる。「火は?」"Got a light? "と続ける男に、マッチの火を片手で点けてやる。この挿話が『脱出』To Have And Have Not(一九四四年、ハワード・ホークス)あるいは『アルファヴィル』Alphaville(一九六五年、ジャン=リュック・ゴダール)の引用であるかどうかは問題ではない。単なる光景にすぎないのだが、「煙草あるかい?」というセリフによって、いつ襲われるかわからない危険な状況とか、物語のしかるべき流れから逸脱した時間が現前してしまうことが重要なのだ。

 『遊星からの物体Ⅹ』を恋愛劇に落としこんだ『スターマン』は徹底した抒情性を帯びた閃光の氾濫が起こる。カレン・アレンが、亡き夫を模した宇宙人ジェフ・ブリッジスをつれて、アリゾナの大地に連れだす。すると、ガス状の惑星型円盤が空を覆い、粉雪を散らしながら辺りを蒼い色に染めあげる。別れの時を悟った二人は煌めきに照らされながら抱き合うのだ。かつて、ハリウッドの撮影所が機能していた時代の白黒映画では、後景から射し込んだ逆光が、男女の輪郭を浮きあがらせた。こうした繊細な画面の設計は、光に無感覚であっては決してできないし、紛れもなく映画にしか訪れようのない光景なのだ。

 

[1] ウォーレン・バックランド著、前田茂、要真理子訳『フィルムスタディーズ入門――映画を学ぶ楽しみ――』晃洋書房、二〇〇七年、一五四~一五六頁Warren Buckland,FILM STUDIES,1998

[2]樋口泰人「その中でも強烈な印象を残すのは、やはり『ターミネーター2』でのマッチョな肉体だろう。微妙な心理描写よりも、人工的な肉体の強い動きこそが映画を支配するのだといわんばかりの、シェイプアップされ、まさにスペクタクルと化した肉体を、この時彼女{リンダ・ハミルトン}は持った。(略)その容姿とアクションこそ、まさにキャメロンがアメリカ映画に持ちこんだ新しい女性像を象徴するものだった」稲川方人編、樋口泰人青山真治阿部和重黒沢清塩田明彦、安井豊著『ロスト・イン・アメリカデジタルハリウッド出版局 二〇〇〇年、「リンダ・ハミルトン」四四六頁

[3]名嘉山リサ「ブラックスプロイテーション映画のアクション・ヒロイン――パム・グリアとタマラ・トンプソンの身体をめぐって――」加藤幹朗監修、塚田幸光編『映画学叢書 映画の身体論』ミネルヴァ書房、二〇一一年、九五~一二〇頁、所載

[4] 前掲『ジョン・カーペンター恐怖の倫理』収載「映画監督ジョン・カーペンターのすべて」三四~四〇頁

書評『ロードムービーの創造力』

 ニール・アーチャーの『ロードムービーの想像力 旅と映画、魂の再生』(晃洋書房、2023年)は端的に要約すると、『イージーライダー』(1969)を皮切りに、『断絶』(1971)、『バニシング・ポイント』(1971)ほかと二匹目のドジョウを狙った映画が商業的に作られていったことによってジャンルとして内面化されていったロードムービー。著者はこれらの作品が反逆の神話としてのみ意味を限定してしまうのみでは、可能性や意味の展開を殺してしまうことになる。とは言うものの、いささかロードムービーを、ユートピアを目指した冒険による変化と再生、自由の謳歌といった救済劇として扱っているきらいは否めない。

 実際、序章にあるように、『コラテラル』(マイケル・マン、2004)や『ドライブ』(ニコラス・ウィンディング・レフン、2010)はクライム=サスペンス映画であって、例外的に『テルマ & ルイーズ』(1991)のように主人公にとっての男性優位社会抑圧から逃走する旅の意味や自動車の走行と景色の発見があるからこそロードムービーで認識し、成立しうるとした了解を求めている。

 そして、1章、2章で合衆国から中南米を横断しアメリカ大陸の映画を扱ったのち、続く3章の「世界のロードムービー」が取り上げられる。この作品のセレクトが、『気狂いピエロ』(JLG、1965、『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース、1973)、『冬の旅』(アニエス・ヴァルダ、1985)、『菊次郎の夏』(北野武、1999)、『EUREKA』(青山真治、2000)、『10話』(アッバス・キアロスタミ、2002)といずれも映画史に残る傑作で間違いなくロードムービーであることには違いないが、セレクト自体には批評性がなく、救済劇ばかりである。

 それよりも、著者がロードムービーとは何かを明らかにするために披瀝される先行研究や参考資料に俄然関心を抱いた。20世紀の自動車文化の発展は、GM社(ゼネラル・モーターズ)が路面電車を廃止するために会社を買収し、50年代にはアイゼンハウアーがヒットラー主導のアウトバーンに影響をされて高速道路開発に巨額の資金を投じたわけで、つまりはアウトローたちの行動は産業システムに組み込まれているだとか。それ自体はジョセフ・ヒースの『反逆の神話 反体制はカネになる』で言うように、消費主義批判はむしろ消費を産み出しているのだということだ。

 あるいは、フェミニズム映画理論の観点からモリーハスケルの言うバディ映画に『イージー・ライダー』や『断絶』は当てはまる。ノンケの男2人が女をお荷物扱いして、マシンをいじるのに没入したり、スピードを出したり、ラリったりしてみせるいわばホモソーシャルを、ヘテロの男性観客向けに娯楽として提供している。そうした傾向からティム・コリガンはロードムービージャンルそのものを「男性のヒステリー」と糾弾するのだ。そこではもっぱら、家庭、責任、単調な仕事からの逃避行が演じられるにすぎないからだ。そこで、『テルマ & ルイーズ』こそがスティーブン・コーハンとアイナ・レイ・ホークほか多数の論者が評価するように男性中心的であったロードムービーをひっくり返し、『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)、『プリシラ』(1994)、『トゥルー・ロマンス』(1993)にまで可能性を広げていったのだと解説している。

 それを読んでアーチャーはロードムービーとして挙げてはないが、アイダ・ルピノの『ヒッチ・ハイカー』(1953)を思い出した。かの映画では釣り旅を口実にメキシコに妻がありながら女を買いに来た男2人が、連続殺人犯をうっかり乗せてしまうというフィルム・ノワールだ。ここでは、ユートピアは存在しない。その救いのなさが、ロードムービーとして残酷で惹かれるのだが。

 その点、ヴェンダースの『PERFECT DAYS』もそうで、都内をぐるぐるぐるとまわり続け、どこへ行ってもスカイツリーが君臨する消費都市東京での逃げ場のないロードムービー=人生である。サブカルチャーを消費しつづける奴隷の暮らしのようだ。

 いくらでもパクっていただいて構わないが、『路駐』という実験映画を考えたことがある。それこそ、ロードムービーが醸し出す叙情的な旅の風景への対抗する意識から浮かんだアイディアがある、

 停車している自動車の車内からキャメラを構える。そこから見える絵は必然窓枠を通していて絵にならないものも絵になる。

 走っていない自動車から見える光景。張り込みに似ているがそこには何の事件性も存在しない。ただその場が切り抜かれる。ラジオをつけることも可能だし、内装だとか、地域や時事に応じて変えてみるのも面白い。雪が降り積もって何も見えない絵を入れるのもおかしいのではないか。

 それに車種によって映画の表す意味も違ってくるだろう。クラシックカーなら気障なノスタルジーを醸し出すだろうし、月並みな軽自動車なら凡庸な日常を顕在化させるだろう。これこそ、新しいロードムービーなのではないか。

 ちなみに、私自身はその映画を撮るつもりは毛頭ない。自動車はおろか免許さえとっていないからである。

 

 

映画評『首』(2023)

親分「おい、お前やれよ」

子分「え? おれがすか?」

親分「いいから、やれよ」

子分「じゃあ……」

親分「ばかやろう、何やってんだお前」

 北野武はヤラセの人である。いわゆる、ビートたけしたけし軍団のコントは、親分が子分にわざと馬鹿馬鹿しいことをやらせて、そのあまりにもくだらないギャグを、やらせておきながら「ばかやろう」とボケて突っ込むのである。北野は『御法度』(1999)でさえ土方歳三を演じた際も、「おまえ、やってこい」と山崎丞(トミーズ雅)に女をあてがうようにやらせる役を引き受けているが。『首』(2023)における羽柴秀吉も当然やらせの人として描写される。「なんで急に草履なんか渡すんだよ」、「おまえ、なんだよその演技は」、「おまえ、死んできてくんねぇか」、「親方に張り付いてくんねぇか」、「そのほろをつけて走れば弾除けになる」などと。それはまったくの無邪気な餓鬼大将の延長線上にある児戯である。だが、そこに権力が伴っており、誰もさからえない。そのいじりと言う名の醜悪ないじめをエンターテイメントとして見せているわけである。

 だから、『アウトレイジ』(2010)で中野英雄が指を詰めるだとか、『BROTHER』(2001)で渡哲也の前で大杉連が腹を切るとか、『ソナチネ』(1993)のロシアンルーレットにもそれは通底しているだろうし、この『首』で加瀬亮の信長が遠藤憲一荒木村重切腹を強要するのも同工異曲である。しかしながら、それは芸なのか。体を張っているのは冠者であり、殿ではない。それは殿本人が面白がり、その周りにいる家臣たちが自分たちはそういう目に遭いたくないから面白がるふりをするという内輪ノリ的ファシズムなのである。

 この映画は至極通俗的である。まず、初期の北野武の映画は『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫から「こんなものはシナリオではない」と批判を受けていたぐらい、物語の展開がわかりやすい勧善懲悪のメロドラマとしては不完全であった。が、どう考えても、この構想30年の映画は、サルと哂われる秀吉がやりたい放題の信長を倒すためにそのお小姓たちを焚きつけて戦わせ、その隙をついて天下を狙うという典型的な下剋上アーキタイプをとっている。

 それに輪をかけて撮り方もまたわかりやすい。この戦国時代を青地に赤いテロップで解説が入って始まり、和重と信長の確執は回想で見せられるわ、徳川家康に毒入りの鯛を食わせるシーンではあろうことか別アングルから説明的なショットを入れて繰り返しどうやって難を切り抜けたかをそのうえセリフで説明してしまう。北野武はかつて映画とは素因数分解、つまりは省略であると豪語していたのだが、本作においてはシーンごとにエピソードが凝縮され、説明的な台詞が満載で、かつての『3-4 X 10月』(1990)におけるような戯れの時間は存在しない。『その男、凶暴につき』(1989)のように無言で歩くシーンにあった資本的な消費を逸脱した、俳優北野武のなんとも言えないぶっきらぼうな歩き方が露呈した瞬間と言うのはいささかも訪れない。それはもはや体を動かす自作自演よりも、俳優を使って物語る監督北野武として変貌してしまったことを残酷にも告げているだろう。

そう、中村獅童が扮する茂助が足軽たちに話しかける何気ない長回しから弓矢が急に降り注ぐだとか、俯瞰のロングショットで燃える自宅を訪ねるというのは古典的な映画らしさを醸し出している。しかし、映画作家北野武は古典的がゆえに評価に値するというのはそれこそ笑えない冗談である。