映画評『スターマン』(1984)

 ある夜、窓の外には木々を背中に広がる湖がみえる。そこにひとつのきらめく星が落ち、光を放つ。その様子に気づくこともなく、八ミリのホームビデオに映る夫役のジェフ・ブリッジスと自分の姿に目を奪われ、涙する妻ジェニーを演じるカレン・アレンはワインをグラスに注ぐ。映画を見る女性が涙を流す姿を捉えたこの場面の配光は、暗く抑えた影のなかから彼女の眩い瞳の輝きが漏れている。彼女は亡くなった夫の姿に思いを馳せているのだ。すると、庭に光る物体が現れ、ゆるやかな浮遊感のある主観のショットでゆっくりと家のなかへと入りこんでいく。しどけない姿で寝ていたアレンは気配に気づくと、目の前で赤ん坊が徐々に成長していき夫の姿へと変身を遂げる。あまりのできごとにアレンは手に握った拳銃を落としてしまい、それを拾われてしまう。夫を形態模写した「スターマン」は奇態な恰好で銃を構えるや、国連の異星人へと向けたスピーチをそのままに発声する。アレンはそのまま気絶してしまう。メロドラマは脚本の構成上、「知識の不一致 [1]」が起きる。観客は、研究員たちのシークエンスから調査目的でやってきた友好的な異星人であると知りながら、カレン・アレンにとっては未知の存在として現れた既知の存在との間でどう揺れ動くかのサスペンスが作られている。

 この『スターマン』の一連のシークエンスは台詞らしい台詞のないままに始まっている。それはカーペンターの作品を見ていればわかるように、すべては寡黙な画面から導かれている。まず、このアレンの部屋は暖炉の火がゆれ、琥珀色にあたりを染めている。この明確に色彩の構成を意識した撮影と照明は、ラストのシーンから予告あるいは逆算したかのように非常に計算されている。カレン・アレンはスターマンであるジェフ・ブリッジスを乗せ、マスタングを走らせる。スターマンを恐れる彼女はハンドルを握ったまま目を合わさないのだが、その不和は時間が経つにつれて解消されていくだろう。そのうちに夜になると、赤いネオンの光が時折射しこむ。やがて道中、宇宙人を捕獲しようと動く警察の検問に正面から突っ込み、あたり一面を焔の海へと変えてしまい、その中からブリッジスが傷ついたアレンを抱えて現れるショットが撮られている。そうした、誰もが知る聖人をベースにしたストーリーは映像に奉仕する。

 これは出エジプト記を描いた『十戒』The Ten Commandments(一九五六年、セシル・B・デミル、)の神の力によって海が割れる場面のような、いささか冗漫なシーンにも演出できたろうに、自動車が追突してからほんの数ショットで収め、神秘的で印象深くなっている。「神の偉大さ」を示した『十戒』は必然的に映画よりも特撮が前景化し、神秘よりも合成ばかりが際立ったのは言うまでもない。このシーンは彼女らが自動車を走らせる一連のシーンよりもはるかに短いのだ。こうして光の細部が一貫して寡黙に語られているのは練られた脚本とそれに見合った演出意図をスタッフ全員が意識しながら制作した結果である。そうした技術の面でもさることながら、自然の光までもが映画を祝福している。

 モニュメントバレーに広がる雲を背に駆けるトラックの荷台で揺られる二人を包む淡い風景がある。この荷台にはネイティブ・アメリカンの女性が赤子を連れており、その子を一緒に見たスターマンはアレンに、ブリッジスとの間に子供がいたのかどうかと聞くと、彼女が不妊だったことを教える。これがラヴシーンの伏線となっているのは指摘するまでもないが、この古びたトラックが象徴的なのは、この映画で登場した乗り物は宇宙衛星、空軍機、ヘリ、マスタング、バス、パトカー、トラック、オールドカー、列車、キャデラックといったいかにもスピードのあるものから緩慢なものまでさまざまななかで差異をもって、最も疾走感に溢れているからだ。それは疾風が揺れる荷台の上にいる彼女たちを吹き抜けるようすはまさしく感動的だろう。のちに夕陽が彼らの顔を照らすショットも撮り直しの効かない見事な場面だ。この演出には西部劇の駅馬車の記憶がまざまざと生きている瞬間である。ロードムービーとしては宇宙から何万光年も旅をしてきた異星人がさらにアリゾナを渡るというとてつもない超長距離移動を行っているが、ニール・アーチャーが『ロードムービーの想像力』(2022年、晃洋書房)でピックアップした映画群がいささかユートピア的な救いを求めていたのに対し、『スターマン』は宇宙人の宿した子供に、つまりは家庭に希望が託されている。「男性のヒステリー」と糾弾されもするロードムービーがメロドラマとして転化しているのだ。

 もし、『スターマン』を大衆的かつ言語的に語るとすれば、カレン・アレンが宇宙局研究所の人間にスターマンに敵意はないということを伝えられ、涙を流しながら駆けつける場面を作劇するだろう。むろん、洗練された『スターマン』は光のなかでジェフ・ブリッジスが死んだ鹿を甦らせる様子をカレン・アレンが目撃してから、以前の死んだ夫のイメージに引きずられ怯えきっていた態度を一変させている。彼女は違う新たな男を愛し始めたのだ。

 映写機のホームビデオを見ていたカレン・アレンは光を導く素養に恵まれていたのだといえよう。あの瞳がひときわ記憶に残るアレンが、演じるというよりもその存在から主題そのものを体現しているといっていい。その彼女が拳銃を握る場面が本作では二度反復されることに注目しよう。彼女はスターマンを虐げる猟師たちに向かって何のためらいもなく威嚇発砲し、すぐさま助けだす。この威勢のいい身振りは幾度となく見た光景である。それは『要塞警察』のローリー・ジマーが傷ついた肩をものともせずに引き金を引く場面に始まって、『ハロウィン』(一九七八)の包丁を握ったジェイミー・リー・カーティス、『ニューヨーク1997』(一九八一)のエイドリアン・バーボー、『ゼイリブ』(一九八八)のメグ・フォスター、『ヴァンパイア』(一九九八)のシェリル・リーと枚挙に暇がないほどに現れる姿である。彼女らの飾り気のない姿は凛々しいことこのうえない。それはよく指摘されるホークス映画の女性像とも異なるだろう。

 ほか、近年の男性監督による強い女性を描く傾向がその実は、J・キャメロンが『エイリアン2』Aliens(一九八六)から『ターミネーター2』Terminator 2:Judgement Day(一九九一)、R・スコットが『テルマ&ルイーズ』Thelma and Louise(一九九一)から『G.I.ジェーン』(一九九七)へと、それぞれの作家が徐々にその題材を「大きな物語」へと前景化し、女優の身体そのものをスペクタクルとして消費する過激さ[2]と無縁に、傍系的なエピソード足り得ているからだ。

 カーペンターの場合、『エスケープ・フロム・LA』(一九九六)、『ゴースト・オブ・マーズ』(二〇〇一)と二作続けて出演したパム・グリアでさえ、実質的に性転換したキャラクターを演じており、彼女の豊満な肉体を性的にエクスプロイテーションさせていた作品群のパロディを演じさせているのだ[3] 。それにこの『スターマン』に登場する協力的な研究員チャールズ・マーティン・スミスがいつも葉巻を吸おうとするも止められて吸えないという滑稽なギャグの繰り返しが、命令に背いて二人を逃がした責任を咎める将軍のリチャード・ジャッケルに、満面の笑みで煙を吐きつけるヒロイックな行いへと転化される様子を見ればよい。それはカート・ラッセルが演じてきたキャラクターの数々とも共有する動作なのはもちろんのこと、誰にも平等に与えられた幾らでも代替の効くアクションなのである。だから、カーペンターを論じるとなると「アウトロー[4]」の一語を用いて説明せざるにはいられなかった評論の数々は疑わねばならないだろう。そこにあるのは身振りの発見なのだ。

 警察署を包囲したギャング団を相手に、警察官と秘書と悪漢が手を組み、退ける『要塞警察』。署内は電力を絶たれ、薄暗い。悪漢ダーウィン・ジョストンは口癖の「煙草はあるか」"Anybody got smoke? "と何の気もなしに言う。女秘書ローリー・ジマーは黙ったまま煙草を咥えさせてやる。「火は?」"Got a light? "と続ける男に、マッチの火を片手で点けてやる。この挿話が『脱出』To Have And Have Not(一九四四年、ハワード・ホークス)あるいは『アルファヴィル』Alphaville(一九六五年、ジャン=リュック・ゴダール)の引用であるかどうかは問題ではない。単なる光景にすぎないのだが、「煙草あるかい?」というセリフによって、いつ襲われるかわからない危険な状況とか、物語のしかるべき流れから逸脱した時間が現前してしまうことが重要なのだ。

 『遊星からの物体Ⅹ』を恋愛劇に落としこんだ『スターマン』は徹底した抒情性を帯びた閃光の氾濫が起こる。カレン・アレンが、亡き夫を模した宇宙人ジェフ・ブリッジスをつれて、アリゾナの大地に連れだす。すると、ガス状の惑星型円盤が空を覆い、粉雪を散らしながら辺りを蒼い色に染めあげる。別れの時を悟った二人は煌めきに照らされながら抱き合うのだ。かつて、ハリウッドの撮影所が機能していた時代の白黒映画では、後景から射し込んだ逆光が、男女の輪郭を浮きあがらせた。こうした繊細な画面の設計は、光に無感覚であっては決してできないし、紛れもなく映画にしか訪れようのない光景なのだ。

 

[1] ウォーレン・バックランド著、前田茂、要真理子訳『フィルムスタディーズ入門――映画を学ぶ楽しみ――』晃洋書房、二〇〇七年、一五四~一五六頁Warren Buckland,FILM STUDIES,1998

[2]樋口泰人「その中でも強烈な印象を残すのは、やはり『ターミネーター2』でのマッチョな肉体だろう。微妙な心理描写よりも、人工的な肉体の強い動きこそが映画を支配するのだといわんばかりの、シェイプアップされ、まさにスペクタクルと化した肉体を、この時彼女{リンダ・ハミルトン}は持った。(略)その容姿とアクションこそ、まさにキャメロンがアメリカ映画に持ちこんだ新しい女性像を象徴するものだった」稲川方人編、樋口泰人青山真治阿部和重黒沢清塩田明彦、安井豊著『ロスト・イン・アメリカデジタルハリウッド出版局 二〇〇〇年、「リンダ・ハミルトン」四四六頁

[3]名嘉山リサ「ブラックスプロイテーション映画のアクション・ヒロイン――パム・グリアとタマラ・トンプソンの身体をめぐって――」加藤幹朗監修、塚田幸光編『映画学叢書 映画の身体論』ミネルヴァ書房、二〇一一年、九五~一二〇頁、所載

[4] 前掲『ジョン・カーペンター恐怖の倫理』収載「映画監督ジョン・カーペンターのすべて」三四~四〇頁

書評『ロードムービーの創造力』

 ニール・アーチャーの『ロードムービーの想像力 旅と映画、魂の再生』(晃洋書房、2023年)は端的に要約すると、『イージーライダー』(1969)を皮切りに、『断絶』(1971)、『バニシング・ポイント』(1971)ほかと二匹目のドジョウを狙った映画が商業的に作られていったことによってジャンルとして内面化されていったロードムービー。著者はこれらの作品が反逆の神話としてのみ意味を限定してしまうのみでは、可能性や意味の展開を殺してしまうことになる。とは言うものの、いささかロードムービーを、ユートピアを目指した冒険による変化と再生、自由の謳歌といった救済劇として扱っているきらいは否めない。

 実際、序章にあるように、『コラテラル』(マイケル・マン、2004)や『ドライブ』(ニコラス・ウィンディング・レフン、2010)はクライム=サスペンス映画であって、例外的に『テルマ & ルイーズ』(1991)のように主人公にとっての男性優位社会抑圧から逃走する旅の意味や自動車の走行と景色の発見があるからこそロードムービーで認識し、成立しうるとした了解を求めている。

 そして、1章、2章で合衆国から中南米を横断しアメリカ大陸の映画を扱ったのち、続く3章の「世界のロードムービー」が取り上げられる。この作品のセレクトが、『気狂いピエロ』(JLG、1965、『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース、1973)、『冬の旅』(アニエス・ヴァルダ、1985)、『菊次郎の夏』(北野武、1999)、『EUREKA』(青山真治、2000)、『10話』(アッバス・キアロスタミ、2002)といずれも映画史に残る傑作で間違いなくロードムービーであることには違いないが、セレクト自体には批評性がなく、救済劇ばかりである。

 それよりも、著者がロードムービーとは何かを明らかにするために披瀝される先行研究や参考資料に俄然関心を抱いた。20世紀の自動車文化の発展は、GM社(ゼネラル・モーターズ)が路面電車を廃止するために会社を買収し、50年代にはアイゼンハウアーがヒットラー主導のアウトバーンに影響をされて高速道路開発に巨額の資金を投じたわけで、つまりはアウトローたちの行動は産業システムに組み込まれているだとか。それ自体はジョセフ・ヒースの『反逆の神話 反体制はカネになる』で言うように、消費主義批判はむしろ消費を産み出しているのだということだ。

 あるいは、フェミニズム映画理論の観点からモリーハスケルの言うバディ映画に『イージー・ライダー』や『断絶』は当てはまる。ノンケの男2人が女をお荷物扱いして、マシンをいじるのに没入したり、スピードを出したり、ラリったりしてみせるいわばホモソーシャルを、ヘテロの男性観客向けに娯楽として提供している。そうした傾向からティム・コリガンはロードムービージャンルそのものを「男性のヒステリー」と糾弾するのだ。そこではもっぱら、家庭、責任、単調な仕事からの逃避行が演じられるにすぎないからだ。そこで、『テルマ & ルイーズ』こそがスティーブン・コーハンとアイナ・レイ・ホークほか多数の論者が評価するように男性中心的であったロードムービーをひっくり返し、『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)、『プリシラ』(1994)、『トゥルー・ロマンス』(1993)にまで可能性を広げていったのだと解説している。

 それを読んでアーチャーはロードムービーとして挙げてはないが、アイダ・ルピノの『ヒッチ・ハイカー』(1953)を思い出した。かの映画では釣り旅を口実にメキシコに妻がありながら女を買いに来た男2人が、連続殺人犯をうっかり乗せてしまうというフィルム・ノワールだ。ここでは、ユートピアは存在しない。その救いのなさが、ロードムービーとして残酷で惹かれるのだが。

 その点、ヴェンダースの『PERFECT DAYS』もそうで、都内をぐるぐるぐるとまわり続け、どこへ行ってもスカイツリーが君臨する消費都市東京での逃げ場のないロードムービー=人生である。サブカルチャーを消費しつづける奴隷の暮らしのようだ。

 いくらでもパクっていただいて構わないが、『路駐』という実験映画を考えたことがある。それこそ、ロードムービーが醸し出す叙情的な旅の風景への対抗する意識から浮かんだアイディアがある、

 停車している自動車の車内からキャメラを構える。そこから見える絵は必然窓枠を通していて絵にならないものも絵になる。

 走っていない自動車から見える光景。張り込みに似ているがそこには何の事件性も存在しない。ただその場が切り抜かれる。ラジオをつけることも可能だし、内装だとか、地域や時事に応じて変えてみるのも面白い。雪が降り積もって何も見えない絵を入れるのもおかしいのではないか。

 それに車種によって映画の表す意味も違ってくるだろう。クラシックカーなら気障なノスタルジーを醸し出すだろうし、月並みな軽自動車なら凡庸な日常を顕在化させるだろう。これこそ、新しいロードムービーなのではないか。

 ちなみに、私自身はその映画を撮るつもりは毛頭ない。自動車はおろか免許さえとっていないからである。

 

 

映画評『首』(2023)

親分「おい、お前やれよ」

子分「え? おれがすか?」

親分「いいから、やれよ」

子分「じゃあ……」

親分「ばかやろう、何やってんだお前」

 北野武はヤラセの人である。いわゆる、ビートたけしたけし軍団のコントは、親分が子分にわざと馬鹿馬鹿しいことをやらせて、そのあまりにもくだらないギャグを、やらせておきながら「ばかやろう」とボケて突っ込むのである。北野は『御法度』(1999)でさえ土方歳三を演じた際も、「おまえ、やってこい」と山崎丞(トミーズ雅)に女をあてがうようにやらせる役を引き受けているが。『首』(2023)における羽柴秀吉も当然やらせの人として描写される。「なんで急に草履なんか渡すんだよ」、「おまえ、なんだよその演技は」、「おまえ、死んできてくんねぇか」、「親方に張り付いてくんねぇか」、「そのほろをつけて走れば弾除けになる」などと。それはまったくの無邪気な餓鬼大将の延長線上にある児戯である。だが、そこに権力が伴っており、誰もさからえない。そのいじりと言う名の醜悪ないじめをエンターテイメントとして見せているわけである。

 だから、『アウトレイジ』(2010)で中野英雄が指を詰めるだとか、『BROTHER』(2001)で渡哲也の前で大杉連が腹を切るとか、『ソナチネ』(1993)のロシアンルーレットにもそれは通底しているだろうし、この『首』で加瀬亮の信長が遠藤憲一荒木村重切腹を強要するのも同工異曲である。しかしながら、それは芸なのか。体を張っているのは冠者であり、殿ではない。それは殿本人が面白がり、その周りにいる家臣たちが自分たちはそういう目に遭いたくないから面白がるふりをするという内輪ノリ的ファシズムなのである。

 この映画は至極通俗的である。まず、初期の北野武の映画は『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫から「こんなものはシナリオではない」と批判を受けていたぐらい、物語の展開がわかりやすい勧善懲悪のメロドラマとしては不完全であった。が、どう考えても、この構想30年の映画は、サルと哂われる秀吉がやりたい放題の信長を倒すためにそのお小姓たちを焚きつけて戦わせ、その隙をついて天下を狙うという典型的な下剋上アーキタイプをとっている。

 それに輪をかけて撮り方もまたわかりやすい。この戦国時代を青地に赤いテロップで解説が入って始まり、和重と信長の確執は回想で見せられるわ、徳川家康に毒入りの鯛を食わせるシーンではあろうことか別アングルから説明的なショットを入れて繰り返しどうやって難を切り抜けたかをそのうえセリフで説明してしまう。北野武はかつて映画とは素因数分解、つまりは省略であると豪語していたのだが、本作においてはシーンごとにエピソードが凝縮され、説明的な台詞が満載で、かつての『3-4 X 10月』(1990)におけるような戯れの時間は存在しない。『その男、凶暴につき』(1989)のように無言で歩くシーンにあった資本的な消費を逸脱した、俳優北野武のなんとも言えないぶっきらぼうな歩き方が露呈した瞬間と言うのはいささかも訪れない。それはもはや体を動かす自作自演よりも、俳優を使って物語る監督北野武として変貌してしまったことを残酷にも告げているだろう。

そう、中村獅童が扮する茂助が足軽たちに話しかける何気ない長回しから弓矢が急に降り注ぐだとか、俯瞰のロングショットで燃える自宅を訪ねるというのは古典的な映画らしさを醸し出している。しかし、映画作家北野武は古典的がゆえに評価に値するというのはそれこそ笑えない冗談である。

映画評『哀れなるものたち』(2023)

「わたしの身体はわたしのもの」

『歌う女・歌わない女』(1977)



 『哀れなるものたち』(2023)に対して覚えるのはノスタルジーである。メジャーの映画会社であるフォックスサーチライトすなわちディズニーが配給している点である。ストーリーは実の子の赤ん坊の脳みそを移植されて復活した女の奔放な冒険譚という、60年代にB級映画の帝王の異名を冠した悪名高いロジャー・コーマンジェーン・アッシャーで映画化していてもおかしくないようななんともゴシックなストーリーである。

 コスプレ劇というのは難しいものだ。『クルエラ』(2021)はファッションデザインの世界を描いているにも関わらず、衣裳は記憶に残らない大人しさで、肝心の演出が単焦点レンズの中央切り返しという凡庸な撮り方で実に大人しかった。

 それと引きかえに、ヨルゴス・ランティモスの演出は、ボスやブリューゲルといったフランドル派風のビザールなタッチを取り入れて地獄のような貧困にあえぐスラムの人々や合成獣を映したり、魚眼のレンズで人形劇のような露悪的な撮り方をしている。セットも『クルエラ』と違い、立体的な構造で、二階から一階まで地続きになっているセットが組んであって、そこを俳優やキャメラが行き来するのを見せるから躍動感がある。それこそかつてのジャン=ピエール・ジュネを思わせる異色の娯楽作である。

 見ていて退屈はしなかったが、それはこの映画の間のない編集の効果によるものだろう。本作には動いているカットしかない。いわゆる俳優のリアクションしているカットではなく、アクション、芝居や絡みをしている最中だけがつねに切り取られているからである。ただ、激しく動いているところでは劇伴が高まるという演出は弱い点ではあろう。とはいえ、この映画はある世界観を描き切ると言う点では成功している。

 この映画でつねに強調されるのは「わたしのからだは、わたしのものである」。フィアンセと契りを結びながらも、あえて好色一代男悪徳の栄えに興じる主人公のベラは道徳や倫理が欠落した善悪の彼岸にいる者である。主体的に自らの意志で行動する点において彼女は、社会に抑圧された実質的な死者よりも、人間らしく生きていると言える。そして、このベラはパートナー関係になるコミュニストの売春婦のキャラクターに感化されて集会に行くというシーンまである。上野千鶴子は『ニッポンのミソジニー』で宮台真司を批判しながら女性が身体を売るとは自らの実存のためであると論じていたのを思い出すが。かといって、結局は契約を交わした相手とのファミリーロマンスに帰結する点において、父権制への迎合だろう。その上、それらの映画では画面に映る女優は視覚的快楽として撮られていることも改めて問題視すべきだ。

 濡れ場のシーンをこれでもかと見せるが、深田晃司の『よこがお』で筒井真理子が全裸で四つん這いに市街を這うシーンを高く評価するのと同じように、それは性への信奉であり、見せつける演技の称揚である(若尾文子という希代の映画俳優がこの映画を高く評価していることに驚かざるをえない)。濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』も、塩田明彦の『春画先生』もそうだ。アンチポルノどころか、ポルノだ。

 その描き方はゴダールが『勝手に逃げろ 人生』で無惨にも見せつけたものにも、ファズビンダーの『四季を売る男』にも、アケルマンの『わたし、あなた、彼、彼女』の域には到底たどり着いていない。

 むろん、性描写は要素であり、映画の中心ではないがゆえに考えざるをえないだろう。

映画評『不審者』(1951)

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 ストーリーは不審者の通報をきっかけに、警官の男が地元の名士の人妻と関係を持つ。男は身体と遺産目当てに名士を罠に嵌めて殺す。男は未亡人と結婚するも、すでに自分の子供を孕んでいることに気がつく。子が産まれて、不倫関係が発展しての謀殺が、世間に明るみになれば、ふたたび事件が捜査されてしまう。焦る男はゴーストタウンで分娩を試みる。医者を無理矢理連れてきて口封じに殺そうとするも、残虐な行為を怖れた妻に阻止され、警察に包囲される。というのがあらすじ。

 『不審者』というタイトルは、警官であるはずの主人公をあらわしている。主人公の男は、犯行現場を訪ね、実況見分のため、小窓から女を覗き見る。その行為自体は犯人の動向を検めるためのロールプレイングなのだが、その実演が主人公の末路を暗示している。

 主人公は亭主を殺すために不審者のふりをして、誘いだす。草むらに隠れ、扉を揺らし、武装した旦那をおびき寄せて、それを口実にし、殺人を公然と犯すのだ。

 この脚本の構成がさすが冴えている。そして、舞台となる場所も限られており、邸宅、モーテル、教会、ゴーストタウン、裁判所、ドラッグストア、主人公のアパート、同僚の家とたった8カ所である点。ドラマが洗練されており、物語の緊張感が弛まない。それはこの登場人物の権力関係が常にゆらぎ、追い詰められる状況が作られているからだろう。主人公の警官は不在の人物に脅かされる。その最たる脅威は他でもない自分が作った子である。結局のところ、すでに詰んでいたのだ。不義密通を働いたこの主人公はもう破滅していたのである。それはやはり根本に女性嫌悪が根強くあるだろう。

 あえて映さずにラジオから聞こえる音声を効果的に用いた見せ方はやはり特筆すべき点だ。それは『ローマの休日』(1953)で王妃の容態を、『拳銃魔』(1950)で強盗犯の凶行を報じ、本作『不審者』(1951)では死んだはずの夫の「いまから会いに行くよ」という声の録音が、それを聞く当事者の男女にゆさぶりをかけるというシーンを書いてきた脚本のダルトン・トランボの得意とするシチュエーションが用いられているからである。メディアが報道する公の真実が、それを聞くカップルの私性を脅かす。

 そしてそれに見合ったジョセフ・ロージーの演出もずば抜けている。事実上の略奪婚が祝福される教会の階段の上から狙った長回しのパンで撮られた画面構成。この広角気味でぎこちない高さから狙われており、効果的であり、実験的なのだ。

映画評『パーフェクト・デイズ』(2023)

 簡単に言い過ぎかもしれないが、ニュージャーマンシネマというのはナチスによって受けたダメージに対しての作家たちによる批判という側面はあると思う。アウシュヴィッツ以後に詩を書くのと同様、映画を撮ることも野蛮なのだ。ヒトラーが利用した映画メディアに対し、反省がなければ、どんな映画を作ってもプロパガンダと何ら変わらない。

 ヴェンダースは元は画家を目指していたが、寒さを凌ぐために通ったシネマテーク・フランセーズで出会ったアンリ・ラングロワの影響で、映画作家を志したとも語っている。彼は根は典型的なアプレゲールではないか? 苦い敗戦国家のナショナリティを捨て、異国の文化に熱狂する。実際、彼は『世界の涯てまでも』以後、ほとんど母国で撮らず、世界を転々としている。

 ヴィム・ヴェンダースは間違いなく計り知れない功績を築き、世界的な名声を手にした映画作家なのは間違いない。ただ、それは小津安二郎が軍服をきた人間を映さなかった、つまりは戦争を排除したわけだが、ヴェンダースが自らのナショナリティを消して他国ばかり取り上げるのは果たしてどうなのかというのは、今後も見なければわからないことだろう。

 『パーフェクト・デイズ』には紛れもない映画作家ヴェンダースの署名が刻印されている。都心の透明なガラス張りの公衆トイレは鍵をかけると曇りガラスになるという防犯対策のギミックが仕掛けられている。役所広司はトイレ清掃を終えて鍵を外すと、窓の外に奇怪なポーズをとった浮浪者がいるのがワンカットでしめされる。『ハメット』、『パリ、テキサス』ほかのマジックミラーの変奏である。そしてトイレに必ず備え付けられている鏡のある洗面台も映画的な装置として活用される。柄本時生がトイレの入り口に立って初登場する時にカットバックがある。その時役所は柄本に背を向け掃除をしているのだが鏡に映る顔は柄本の方を向いているという技巧を見せてくる。鏡は、黙々と働く役所広司の顔のみならず、時には都市を、時には後ろに立つ人物を切り抜くフレーム内フレーム、窓として使われる。

 そして光に対する感覚も映画作家と損なっているわけではない。どす黒く落ちた木漏れ日、ゆらめく温泉の反射光、夜景の河川敷の橋から延びるビームライト、いささか作りすぎかもしれないが。

 役所広司は清掃員として隙なく動くようすはきびきびとしており、労働しているようすをある種の器械体操のように見せる。これはいわゆる汚いところを掃除したときのカタルシスではなく、パフォーマンスであると取るべきである。いわば、良くも悪くもフリッツ・ラングみたいなものだ。

 この映画は非常に人工的なのである。役所の住むアパートは壁はそれなりにボロボロなのだが、畳はやたら綺麗だし、UNIQLOのグレーのポロシャツをずっと着回しているし、妹の娘が「ニコ」なんていうあのヴェルヴェットアンダーグラウンドの歌姫の名前(ちなみにクリスタ・ペーフゲンがニコを名乗ったゆえんは、恋人だったニコ・パパタキスという映画監督から。理由は「女に産まれたことを後悔しているから」。ペーフゲンは米兵から性的暴行を受けたことがある)を冠しているわけで、そもそもほんとうらしくない。CMくさいという批判もあるが、それはこの映画が偶然性をそれだけ廃して、作家の意図通りの完成度に到達しているからそう見えてしまう皮肉である。

 役所広司の芝居は基本的にはいいのだが、どうも表情を作るホアキン・フェニックスの『JOKER』あたりからの流行りなのか、泣きながら笑うみたいな芝居の長回しでこの映画を終わらせてしまうのはあまりにもわかりやすすぎるし、表情を作りすぎているきらいがある。それは指摘しておかねばなるまい。

 そして、役所広司の演じた平山は裕福な家を飛び出してあえて清掃員として働いているからだ。それは妹と会う場面から察せられるが。つまりは、ブルーカラーの仕事についているのに、あれだけ本や音楽を愛しているのはもとの生まれ育ちが上流階級だったからだと観客に説明するわけだ。これではあまりに決定論的ではないかと感じた。そこに一抹の嫌悪感がわいた。

映画評『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)

 この映画の話法として重要なのは何も知らない未熟な少年が、未知の魔法界に足を踏み入れるという点である。

 だから、常にキャメラのアングルは観客が魔法界にいるかのようなところに据えられている。真俯瞰から撮られたクレーンのキャメラがランタンの灯ったボートに乗った生徒たちをフレームにおさめる。クレーンはゆっくりと下降してくのに合わせてキャメラはティルトアップすることによって構図は水平になり、ホグワーツ城を映し出す。

 それから彼らが学校の階段を登るようすを、上から見下ろしている魔女の教授がおり、じれったそうに手すりを触って待ち受けているようすが、ワンカットで描かれている。あと、たまに魚眼のレンズの引きの絵で撮るショットもあったりして、談話室に案内された時の俯瞰、みぞの鏡をハリーが訪ねるシーンに用いられているが悪くない。照明もしっかりコントラスト、バックライトの加減、青やアンバーの光を使ったナイターの表現ができている。ただ、炎を使うならもう少し炎が炎らしく見えるように照明を作るべきではあるがそこは目を瞑ろう。

 この映画はセリフをほとんどマシンガントークレベルに喋る場面が多いが、それにより、リアクションカットが際立っている点も注目したい。たとえば、9 3/4番線のホームでまくしたてるように喋るウィーズリー夫人は息子のロンを紹介するも当のロンはニコニコしているだけ、ハグリットが学校の先生が生徒に呪いをかけるわけがないとハリーたちをなだめるところでもロンは顔をしかめているだけだったりする。

 普通は、俳優を黙っているだけのシーンのために呼びたくはない。せっかく現場に来たのだからセリフを増やすみたいなことをしてしまうかもしれない。だが、監督のクリス・コロンバスはここでは子役の芝居、リアクションを撮り、最終的に編集するとどうなるか考えた上で撮っているのだ。なので、本作はちゃんと効率的に物語を語るカット割りが普通にできている。それは正当に評価すべき点である。

 映画はまずもって絵から語り、それから言葉が語る。ゴダールが『デュラス/ゴダール ディアローグ』で議論していたように。『ハリー・ポッター 賢者の石』ではこの絵で語り、言葉で語りという流れの使い分けができている点も昨今の映画よりもよくできている。

 この映画で言葉から先行して説明されるのはホグワーツ魔法学校、ヴォルデモート卿、禁じられた森、3階の廊下、賢者の石、チェスについてである。それは物語上、説明しなくてはならない。ハリーの立つ舞台装置を効果的に見せ、かつ対峙する試練を際立たせるためのいわば神話作用である。

 対して、この映画で描かれる「魔法」は絵で最初に見せてくれる。ラテン語の造語を唱えて起きる現象、つまりは豚の尻尾が生える、眼鏡が治る、物が浮く、箒が暴れる、鍵が開く、閃光を放つといったエフェクトが先んじて、エクスプレインは後である。(例 ハーマイオニー「基本呪文集第七章よ」)。

 そして、いちばんよく出来ているのは、あのクィディッチというゲームの説明である。ルールは荒唐無稽だ。ずさんな決まり事というのもなかなか可笑しいがそれはともかく、3種類あるボールの特性を見せることから描いている点が見せ方が巧みである。クワッフルはバスケボールのようにパスしてウッドが輪っかに入れと得点と説明すると遠景に見える競技場にそびえるゴールがズームで強調され、ブラッジャーを解き放ってハリーが打ち返して戻ってきたのをウッドが「暴れ玉だよ」と教え、最後にスニッチはゲームのキモなので事細かに話すと動き出すという仕掛けになっている。この言葉と映像の絶妙な塩梅。阿部和重はこの映画を貶していたがそれほど悪いわけでもあるまい。改めて少し見返すと、歩いているシーンのトラッキングのワンカットで早撮りしているのがわかる。

 ファンタジーもの、SFもの映画を撮る上で難しい課題を難なくクリアしている。これらジャンルは基本的にはティーンエイジャー向けのラノベなので饒舌さばかりが際立ってしまう。

 悪い例として挙げている訳ではないが、ロバート・ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでは主人公のマーティはドクがまずもって何が起きているか(実の母親が君に恋をしているからタイムパラドックスが起きる、時計台に落ちる稲妻と同タイミングで車を走らせる、未来では息子が犯罪者になるから止めないと、機関車を改造してタイムトラベルをする、チキンレースに参加して交通事故を起こす等)をセリフで先に明かす。

 この物語が先か、映像が先か、といった問題をなぜ重視すべきなのだろうか。

 「同じものの反復にはどんないい点があるのか。観客は1度目で話を理解しているので、2度目以降は純粋に映像と音響を楽しめるようになります」とスピルバーグの映画について指摘したのは廣瀬純だった。

 この言葉と映像の相関関係は映画とは切り離せないテーゼである。しかしながら、この図式を破った、シニフィエなきシニフィアンは可能ではある。それは『晩春』の壺であり、『汚名』のワインボトルであり、『ブロウ・ジョブ』のジェラード・マランガの顔であり、『インディア・ソング』の映像そのものであり、『ジュラシック・パーク』のショットガンであり、『シチリア』のパン、『フォーエバー・モーツァルト』の戦車である。それらは物語においてなんら機能しておらず、映像として浮いている。そののっぺりとした表層が物語へのアンチテーゼであり、言語を断ち切ったまさしく映画なのではないか。

 と思うのだが、『ハリー・ポッター』に仕方がなく軌道を修正すると、脚本はうまく人物関係と展開をまとめていて秀逸だ。この映画の監督のクリス・コロンバスは『ホーム・アローン』を撮っているが、実はこの『ハリー・ポッター』とも共通項がある。それは浮浪者=アウトサイダーが主人公の成長のきっかけになっている映画であるということである。いわゆる、このコロンバスが監督した3作品はみなしごが主人公であり、崩壊した家族を取り戻すのがテーマである。そのきっかけとなるのは他でもない家族関係が崩壊した年長者(独居老人、ホームレス、森番)の助けによるものなのだ。まさに、ファミリーロマンスである。

 最後に余談だが、ハリー・ポッターシリーズはなぜかお辞儀が反復される。『秘密の部屋』の決闘クラブ、『アズカバンの囚人』のヒッポグリフ、『炎のゴブレット』のヴォルデモートと、礼節をわきまえるべきだという啓蒙なのかわからないが、不思議な繰り返しがある。流石にこれは拡大解釈する余地はない。