映画評『哀れなるものたち』(2023)

「わたしの身体はわたしのもの」

『歌う女・歌わない女』(1977)



 『哀れなるものたち』(2023)に対して覚えるのはノスタルジーである。メジャーの映画会社であるフォックスサーチライトすなわちディズニーが配給している点である。ストーリーは実の子の赤ん坊の脳みそを移植されて復活した女の奔放な冒険譚という、60年代にB級映画の帝王の異名を冠した悪名高いロジャー・コーマンジェーン・アッシャーで映画化していてもおかしくないようななんともゴシックなストーリーである。

 コスプレ劇というのは難しいものだ。『クルエラ』(2021)はファッションデザインの世界を描いているにも関わらず、衣裳は記憶に残らない大人しさで、肝心の演出が単焦点レンズの中央切り返しという凡庸な撮り方で実に大人しかった。

 それと引きかえに、ヨルゴス・ランティモスの演出は、ボスやブリューゲルといったフランドル派風のビザールなタッチを取り入れて地獄のような貧困にあえぐスラムの人々や合成獣を映したり、魚眼のレンズで人形劇のような露悪的な撮り方をしている。セットも『クルエラ』と違い、立体的な構造で、二階から一階まで地続きになっているセットが組んであって、そこを俳優やキャメラが行き来するのを見せるから躍動感がある。それこそかつてのジャン=ピエール・ジュネを思わせる異色の娯楽作である。

 見ていて退屈はしなかったが、それはこの映画の間のない編集の効果によるものだろう。本作には動いているカットしかない。いわゆる俳優のリアクションしているカットではなく、アクション、芝居や絡みをしている最中だけがつねに切り取られているからである。ただ、激しく動いているところでは劇伴が高まるという演出は弱い点ではあろう。とはいえ、この映画はある世界観を描き切ると言う点では成功している。

 この映画でつねに強調されるのは「わたしのからだは、わたしのものである」。フィアンセと契りを結びながらも、あえて好色一代男悪徳の栄えに興じる主人公のベラは道徳や倫理が欠落した善悪の彼岸にいる者である。主体的に自らの意志で行動する点において彼女は、社会に抑圧された実質的な死者よりも、人間らしく生きていると言える。そして、このベラはパートナー関係になるコミュニストの売春婦のキャラクターに感化されて集会に行くというシーンまである。上野千鶴子は『ニッポンのミソジニー』で宮台真司を批判しながら女性が身体を売るとは自らの実存のためであると論じていたのを思い出すが。かといって、結局は契約を交わした相手とのファミリーロマンスに帰結する点において、父権制への迎合だろう。その上、それらの映画では画面に映る女優は視覚的快楽として撮られていることも改めて問題視すべきだ。

 濡れ場のシーンをこれでもかと見せるが、深田晃司の『よこがお』で筒井真理子が全裸で四つん這いに市街を這うシーンを高く評価するのと同じように、それは性への信奉であり、見せつける演技の称揚である(若尾文子という希代の映画俳優がこの映画を高く評価していることに驚かざるをえない)。濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』も、塩田明彦の『春画先生』もそうだ。アンチポルノどころか、ポルノだ。

 その描き方はゴダールが『勝手に逃げろ 人生』で無惨にも見せつけたものにも、ファズビンダーの『四季を売る男』にも、アケルマンの『わたし、あなた、彼、彼女』の域には到底たどり着いていない。

 むろん、性描写は要素であり、映画の中心ではないがゆえに考えざるをえないだろう。