映画評『パーフェクト・デイズ』(2023)

 簡単に言い過ぎかもしれないが、ニュージャーマンシネマというのはナチスによって受けたダメージに対しての作家たちによる批判という側面はあると思う。アウシュヴィッツ以後に詩を書くのと同様、映画を撮ることも野蛮なのだ。ヒトラーが利用した映画メディアに対し、反省がなければ、どんな映画を作ってもプロパガンダと何ら変わらない。

 ヴェンダースは元は画家を目指していたが、寒さを凌ぐために通ったシネマテーク・フランセーズで出会ったアンリ・ラングロワの影響で、映画作家を志したとも語っている。彼は根は典型的なアプレゲールではないか? 苦い敗戦国家のナショナリティを捨て、異国の文化に熱狂する。実際、彼は『世界の涯てまでも』以後、ほとんど母国で撮らず、世界を転々としている。

 ヴィム・ヴェンダースは間違いなく計り知れない功績を築き、世界的な名声を手にした映画作家なのは間違いない。ただ、それは小津安二郎が軍服をきた人間を映さなかった、つまりは戦争を排除したわけだが、ヴェンダースが自らのナショナリティを消して他国ばかり取り上げるのは果たしてどうなのかというのは、今後も見なければわからないことだろう。

 『パーフェクト・デイズ』には紛れもない映画作家ヴェンダースの署名が刻印されている。都心の透明なガラス張りの公衆トイレは鍵をかけると曇りガラスになるという防犯対策のギミックが仕掛けられている。役所広司はトイレ清掃を終えて鍵を外すと、窓の外に奇怪なポーズをとった浮浪者がいるのがワンカットでしめされる。『ハメット』、『パリ、テキサス』ほかのマジックミラーの変奏である。そしてトイレに必ず備え付けられている鏡のある洗面台も映画的な装置として活用される。柄本時生がトイレの入り口に立って初登場する時にカットバックがある。その時役所は柄本に背を向け掃除をしているのだが鏡に映る顔は柄本の方を向いているという技巧を見せてくる。鏡は、黙々と働く役所広司の顔のみならず、時には都市を、時には後ろに立つ人物を切り抜くフレーム内フレーム、窓として使われる。

 そして光に対する感覚も映画作家と損なっているわけではない。どす黒く落ちた木漏れ日、ゆらめく温泉の反射光、夜景の河川敷の橋から延びるビームライト、いささか作りすぎかもしれないが。

 役所広司は清掃員として隙なく動くようすはきびきびとしており、労働しているようすをある種の器械体操のように見せる。これはいわゆる汚いところを掃除したときのカタルシスではなく、パフォーマンスであると取るべきである。いわば、良くも悪くもフリッツ・ラングみたいなものだ。

 この映画は非常に人工的なのである。役所の住むアパートは壁はそれなりにボロボロなのだが、畳はやたら綺麗だし、UNIQLOのグレーのポロシャツをずっと着回しているし、妹の娘が「ニコ」なんていうあのヴェルヴェットアンダーグラウンドの歌姫の名前(ちなみにクリスタ・ペーフゲンがニコを名乗ったゆえんは、恋人だったニコ・パパタキスという映画監督から。理由は「女に産まれたことを後悔しているから」。ペーフゲンは米兵から性的暴行を受けたことがある)を冠しているわけで、そもそもほんとうらしくない。CMくさいという批判もあるが、それはこの映画が偶然性をそれだけ廃して、作家の意図通りの完成度に到達しているからそう見えてしまう皮肉である。

 役所広司の芝居は基本的にはいいのだが、どうも表情を作るホアキン・フェニックスの『JOKER』あたりからの流行りなのか、泣きながら笑うみたいな芝居の長回しでこの映画を終わらせてしまうのはあまりにもわかりやすすぎるし、表情を作りすぎているきらいがある。それは指摘しておかねばなるまい。

 そして、役所広司の演じた平山は裕福な家を飛び出してあえて清掃員として働いているからだ。それは妹と会う場面から察せられるが。つまりは、ブルーカラーの仕事についているのに、あれだけ本や音楽を愛しているのはもとの生まれ育ちが上流階級だったからだと観客に説明するわけだ。これではあまりに決定論的ではないかと感じた。そこに一抹の嫌悪感がわいた。