引用 シャンタル・アケルマンについて『映画史 入門』より

 何人かの映画作家は、断片的な物語を厳格で禁欲的にミニマルに描く戦略を追求した。

 その最たる例がシャンタル・アケルマンであり、この頃もっとも影響力のある女性監督の一人だった。アケルマンのミニマリズムというのは欧州が源というよりかは、ウォーホルの映画だとか北米の構造映画との遭遇からだといえる。『私、君、彼、彼女』(1974)は長回しで描かれた、赤裸々な逢瀬の物語である。彼女の最も権勢をふるう作品は、『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(1975年、タイトルには主人公の名前とブリュッセルの住所が記されている)である。

 アケルマンは225分以上にわたって、自宅で売春婦として働く主婦の3日間を描く。映画の前半は、家事と同じように細々としすぎたスタイルでジャンヌの生活が描かれる。廊下やキッチンのテーブルを中心とした低い位置のキャメラで、着替え、皿洗い、買春客とのやり取り、ミートローフを料理するところなど、あらゆる仕事が記録される。しかし、ある客の訪問後、ジャンヌのルーティンは不思議なことに崩れ、狂いだす。ついに彼女は客を刺し、食卓につく。『ジャンヌ・ディエルマン』は、フェミニストモダニズムの画期的な作品だ。遅いプロットアクションの弛緩によって、アケルマンは主流な映画が削ぎ落してしまう空虚な間と家庭の空間を観客に見るように強いる。ある意味では、ジャンヌ・ディエルマンは、ネオレアリストのチェーザレ・ザヴァッティーニが夢見た、一人の人間の人生の8時間を記録するという夢を実現する方向に進んでいる――『ウンベルトD』のメイドが日常のささいな身振りから子を孕んだことに気が付く場面を発展させたものだとみなすことができる。しかし、アケルマンは家庭の空間を性的抑圧と経済的搾取の場として扱っている。家事は女性の仕事であり、売春もまた女性の仕事なのだ(ジャンヌの「商業埠頭」という住所が示しているように)。アケルマンのミニマルな作風は、ブレッソン、小津、溝口、そして実験映画を想起させるが、彼女は政治的批判のためにいくつかのテクニックを用いている。スタティックなキャメラで直線的で、ローポジションの画面構成は観客を参加actionから疎外させる一方で、美的かつ社会的に意義のあるものとして家事を威厳づけるのである。

デヴィッド・ボードウェル&クリスティン・トンプソン著、拙訳『映画史 入門 第二版』第23章 1960年代と1970年代の政治的批判映画(原著 P568~569)