映画評『ファントム・スレッド』(2017)

 完璧を追い求める仕立て屋ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が、田舎のウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリーヴス)を見出したところ、モデルとしては抜群だったが実生活では馬が合わず拗れてしまうというもの。

 そこで、アンダーソン監督は階段と眼鏡というモティーフを使って有効に物語を紡ごうとしているところは見逃せない。

 ウッドコックは仕事場への階段を常に登る人として描写され、身分の高さと脇目もふらない職人としての側面が繰り返し強調される。中でも、アルマが仕事主義から解放しようと、サプライズのためにたっぷりめかし込んでからに、階段の途中で阻もうとするシーンは、双方の狂気じみた感じが出ていて素晴らしい瞬間が立ち上がっている。その後の毒を飲まされて階段が上がれなくなる描写を助けているのも印象深い。

 加えて、彼の黒ぶち眼鏡、これも良い。もちろん、洒落ているとか渋いとかそういうことではなく、彼の仕事のスイッチとして、またアルマを妻にふさわしい人物と誤認させてしまう機能まで備えているからだ。彼が眼鏡を外しているときに注目すると、もうへろへろでプライベートかつナーバスな節電状態に入っていて人間的な側面をのぞかせるのだが、あの羽伸ばしとして立ち寄った喫茶では眼鏡がちゃんと顔にかかっていたわけで、アルマを見出したのはあくまでも仕事柄で決して良妻だろうからという理由ではない。そこが悲劇もとい、喜劇の始まり始まりと、構成は凝っているわけだ。つまりはメロドラマからスクリューボールコメディとジャンル横断するという風に作っていて、その割には普遍的な、あるあるネタばかりで笑えないが。

  そもそも演出の詰めが甘い。階段を撮るにしても、もっと時間が停滞するような、そういう感覚が欲しい。例えば、カーペンター『ザ・シンガー』ではエルヴィスがゆっくり上がっていくと亡くなった母親の部屋が空っぽという喪失感に溢れたショットがあったし、またホークス『教授と美女』のクーパー演ずる教授がヤムヤムキッスをされて階段を駆け上るぐらい期待してしまう。狭い館だから仕方ないかもれないが、ロケハンをもう少ししたほうがいいのではないか。

  極めて単純な内容を信じて映画にする姿勢は認めるが、いかんせん単調極まりない。