エッセイ「ひとでなし!」

「愛している人を軽蔑するのは自分を軽蔑するのと同じ」『アメリカの夜』La Nuit américaine(1973年、フランソワ・トリュフォー監督)より

 

 フランソワ・トリュフォーが「Salaud 」と揶揄するのを、山田宏一は「人でなし」と訳す。

 人を人でなしと罵倒するのはいささか滑稽である。ただ、もっと馴染み深い他人を痛罵を浴びせるような言葉に訳にすと、それを発している書き手の品位を読者が疑ってしまうことになる。だから、「人でなし」というのはなかなか妙である。

 「サラリーマンなんて子供作って終わりだろ」。初めて人を「人でなし」だと思ったのは、飲み会の時、とある大学の教授だった。自分の周りの人々の人生が冒涜されているように鋭く感じた。他の人間は生きている意味はないと嘲るような口ぶりだった。そして、この人はそんなたいそうな偉業を遺しているのかとすかさず疑問を抱いた。実際のところ、その人なんて一部の業界人以外誰も知らない。なのに。目の前の尊敬すべき人間がそんなファシストばりの優生思想がどこか内面化されていると思うと、いまでもゾッとする。私はそうした人間の尊厳を蔑ろにするようすを見ていると虫唾が走る。むろん、たったの一言である。それが、心の琴線を強く震わせたのだ。

 すべての人の人生は等しく意味はない。だが、物語が、歴史が、意味が、価値があると思って生きるのが人間である。

 ただ、私は「なんとなく」で生きるのは嫌だ。決定論、つまりは産まれ育った環境の影響で人はすべて決まるという無慈悲なベルトコンベヤーに載せられて屠畜されるような死に方は耐えられない。ネクロマンサーにコントロールされているゾンビのような。

 私の今の悩みは私が私であるために生きるのを阻害されている点である。いままで己として動くために1年ほど耐えてきた。無理をして職場の人間関係を築くためにさして興味のない人間と付き合ったり、仕事について理解度を高めたり、長い時間働いたり、使い勝手のいい奴のふりをしてあちこち働いたりしてきた。だが、それは自分がある一定の期間、活動資金のために都合よく稼ぐための戦略なのである。そこに多少なりは偽りではないところもあったが、自分の中では演技していたというきらいが否めない。しかし、ごっこ遊びとて実銃を使えば人は死ぬわけで、本気でやればそれは真実味を帯びるのである。