映画評『木と市長と文化会館』(1993)

 『木と市長と文化会館』は実にたあいない素振りを見せる。

 フランスの片田舎に、若い市長が古樹を倒し、村興しのためにメディアテークを築こうと試みている。それに反対する小学校の教師、政治雑誌の編集者がそれぞれ、ほどほどに関わる。

 こうした筋書きの明快さが絡んでいるのか、どちらかと言えばドキュメンタリーのような、あっけらからんとした喜劇性に包まれている。

 市長とその妻が、何の脈絡もなく、辺りをうろつき始める。草花や動物と戯れる様子には、編集で取ってつけられたかのようなクローズアップが挿入されているし、いつの間にか棒切れをふっていたりだとか、野放図だ。

 かと思えば、この映画に出てくる女性たちは、逆光を受け止めるような所に、必ずいて、その長い髪をヴェールとして纏っている。ほんのささいなことながら、紛れもなく、演出が施されているのだ。

 本作で強調されるのは、そうした自然だけではない。欧州的な建築も問題として提起されており、風に揺れる木々に対して、灰色の教会が堂々と建っているようすが映る。ロメールの監督作ちは、パリの再開発地区をロケーションに採用した『友だちの恋人』もあるように、都市論的な側面がある。長編デビュー作の『獅子座』は石畳みの町パリを、ペトロつまりは「石」を語源に持つピエールという名の主人子を彷徨わせたのは偶然ではないだろう。いわば、虚構性と記録性が混在しているのだ。

 その最たる場面は、偶然にも、教師の娘が市長を捕まえて、文化会館の是非を問い正し、まくしたてるシーンだろう。「自然を残して、人を呼べばいいじゃないか」。

 市長はその聡明さに心打たれ、「なるほど、レジャー施設にしてしまえばいいんだな!!」と結局、メディアテークの建設を諦める。いわば、これこそが、マクガフィンだ。