映画評『警察官』(1933)

 内田吐夢の『警察官』は國民の創生だ。そもそも、警察というのは国家権力という装置によって成立する暴力による抑圧である。そして、それはまさしく近代においてこそ誕生した制度である。この『警察官』において見せつけられるのは、個人として哲学を語り、走り駆けた旧友を逮捕するために、「一個人」から「警察官」という私を捨てた存在に変貌する瞬間である。物語を辿ろう。

 警察官伊丹(小杉勇)は銀行強盗のはずみで上司を殺した犯人を追っている。手がかりは脚の怪我と指紋のみである。そんな折に草原で寝転がりながら思索に耽り、陸上競技ではハードルを飛び越え、ラグビーでは猛ダッシュし、燦然と輝く海を前にボルゾイ犬と駆ける、うつくしい青春を過ごした哲夫(中野英治)と再会する。    

 垢抜けず生真面目な警官であるからか伊丹は地味な着物をまとっているのと引き換えに、哲夫は爽やかで都会的で洒落た背広を着こなしている。なぜか足を引きずりながら歩く哲夫はすき焼き屋に伊丹を誘い、酒を交わす。が、伊丹は気づいてしまう、もしかしたら哲夫が犯人なのではないかと。そこから伊丹の捜査が始まる。路地から路地へと尾行し、動きがないか張り込みをし、指紋を念入りに採取する。それらの行動が執拗に描写される。それにより際立つのは、伊丹が人間性を失い、機械のように馴染みの友人を追う不気味さである。『ロボコップ』(1987)はそのタイトルに反して、自分を殺した犯罪者に復讐を果たして自我を回復するサイボーグを描いているのに対して、この伊丹というキャラクターはマシン化する。連日の張り込みによって無精髭を生やし、薄汚れていく衣服を羽織り睨みつけながら捜査を続ける伊丹は、銀行強盗の人殺しの犯罪者である哲夫が外套や背広を着飾り丁寧にポマードて整えた髪に素敵な笑顔という出立ちと比べるとなんと見苦しく、無様なのだろうか。

 伊丹が指紋を照合させ、哲夫がクロだと暴いた瞬間、カメラがさまざまなアングルからその顔を撮り、「警察官」、「警察官」、「警察官」というテロップがでてくるのは実に象徴的である。そののち、すぐに現場に駆けつけるバイクに乗った警官たちをとらえたとトラッキングとともに、以下のようなテロップが表示される。

「警察の使命は國家の安寧と静謐(せいひつ)とを保持し。民衆の生命財産を保護して各々其の堵

(かき)に安んじて生活を爲(な)さしむる

に在る/ 宜しく廉恥を生命とし犠牲奉公の警察

精神を體(たい)して/ 威武屈することなく情実に淫することなく/ 如何なる場合に於ても自己の危難を顧

ず水火を潜(くぐ)り兇徒と闘ひ殪(たお)

れて後已(や)むの覚悟がなければなら

ぬ/ 殊に國憲國法を軽んじ國民確信の中軸

たる萬邦無比の我が國體を傷けんとす

る徒輩に対しては断乎として之を膺懲

彈壓(ようちょうだんえん)せねばなら

ないのである/ かヽる労苦かヽる職責は眞によく警察精神に生き警察を天職と心得てこそ始めて/ 完全に遂行し得るのである」

 

 ようは、自分を捨てて国に忠を尽くせということだ。ラストシーンで伊丹は哲夫の手を撃ち抜く。その時に伊丹は自分のシャツをちぎり、血を流す哲夫に傷口に巻きつけてやる。私はその時、哲夫が磔にされるキリストのようにみえた。確かに、まぎれもなく、哲夫は罪人であるが、それを裁かなくてはいけない伊丹はカルマを背負うことになる。唯一無二の友を死刑台に送るのだ。統治機構の犠牲となったのは他でもない伊丹自身なのだ。その時、国民が創生されるのである。

 さて、ビートたけし黒澤明にたいして、『まあだだよ』(1993)で靴を使った時間経過の描写があってああいうのは考えないといけないなと話していたが、この『警察官』(1933)はありとあらゆる方法でうつろう時間が描かれる。

1 時計の針が進む

2 街の地図にネットが投げかけられるようすが合成されていき、そのうち実写の街の写真、真俯瞰からとらえた都市が映る

3 すき焼き屋で飲んでいるとカメラ位置はそのままにオーバーラップして座敷に客が増えていて襖によって間仕切りされているふうにわかる

4ビリヤードの球が当たって弾けるようすを編集で何回も見せる

5 白熱電球が切れるようすを見せて長時間が過ぎたのを見せる

ハワード・ホークスが『暗黒顔の顔役』(1932)でカレンダーがマシンガンの轟く銃声と共にめくれていき、時が経つのを描いたように、この『警察官』もまたこうしたレトリックが用いられている点も注意しておくべきだろう。イマジナリーラインを乗り越える場面やマッチカットなども散見され、モダンで饒舌な話法を今の映画は忘れてしまっている。過ぎ去る時間を描くことによって保たれる連続性。それが映画を映画たるものにしている。