映画評『草原の輝き』(1961)

 『草原の輝き』(1961)はいわゆるウェルメイドな映画だと感じた。ストーリーは20年代カンザス州という保守的で家父長制の権化のような環境に抑圧された高校生の童貞バッドと処女ディーニーのカップルがいる。性欲に負けた男の方が誰とでも寝る女で性体験をしたのが学校中の話題になり、青春を謳ったワーズワスの「草原の輝き」Splendor in the Grassを読んでいるうちに自暴自棄になった女が精神を病み入院。数年後、女は院内のアート療法で関係性を築いた若い男と婚約し、男はピザ屋のラテン系のウェイトレスと子供を作って農場を継ぐ。二人は農場で再開するも、ぎこちなく別れる。去った女が件の詩を心のなかで読みあげてそのまま幕切れ。

 正直、接吻だけのデートに不満な生娘役のナタリー・ウッドが母親と話しながら、箪笥に飾ってある貝殻を耳に当てたり、椅子の背もたれに寄りかかるみたいな演出の当時は新しかったのだろうが今見ると野暮ったい演技の様式に古臭さを覚えた。そういう台詞でなくしぐさで見せる芝居がいくつかあって、例えば、ディーニーがバットと子供を作った女と軽く握手をすると少し目を細めて手をぬぐうしぐさをしてフレームアウトすると、その妊婦が少し腹の子を気にするような視線を落とす芝居をするみたいな、セリフなしで語るところもあってので、これはなかなかうまい見せ方だと感心した。

 この映画は当時のヘイズコードの検閲下にあった映画なので、性的な表現がすべて暗示か、別の映像に置き換えられているのだが、そのきわどい露骨さが印象に残る。たとえば、この映画で3回、滝を舞台に逢瀬が描かれる。1回目は冒頭で夜にいきおいよく流れる雄大な滝を背に童貞と処女が接吻する場面、2回目は滝の中で水着姿で童貞とコケットが絡みつくようすが描かれ、3回目は処女が夜会で会った男に自動車で押し倒されるもはねのけ飛び降りる舞台装置として機能している。この滝というのがまんますぎるのだが、性のエネルギーの隠喩なのは間違いないだろう。

 未経験の頃のバッドがディーニーに愛してるならひざまずけと言うとキャメラが引いてブロウジョブを連想させる構図を見せつけたり、男の近況を聞いた女の首から下が鏡に映る女優がトルソー化するフレーミングが印象深い。撮影はボリス・カウフマンのアイディアなのだろうか。

 そして、この映画で童貞と処女の純潔が強調されるのは皮肉にもヌードである。男が童貞を捨てる前にラグビーで流した汗を流すカットがカメラのトラッキングで描かれ、精神を病んだ女が風呂に入って「どうせ、わたしはいつまでもいい子ちゃんなんでしょ!」と母親に憤りそのままベッドで1人うつぶせになる場面からもわかるだろう。単純に性的な視点からのみ男優と女優のヌードが撮られているわけではなく、物語を補うためにエピソードが巧みに配置されているのだ。ロンゴスのダフニスとクロエを思わせるようなみずみずしさだ。

 さて、この映画のいちばんの見せ場は、2時間の上映時間のちょうど真ん中のプロットの転換点に置かれた「草原の輝き」をディーニーが読みあげる場面だろう。バッドとディーニ―が仲睦まじく歩いていた頃の学校の明るい廊下とはうってかわって、バッドが童貞を卒業したことを知ったディーニーの鬱蒼とした心情を照明と撮影のエフェクトによって暗いトラッキングの画面で描き、詩の意味を問われていてもたってもいられず駆けだしてしまうまでの芝居の間、カットの入れ方が、劇的な場面の効果を表現しきっていて感心した。

 話は逸れるが、『ローマの休日』(1953)にも、うわ言でオードリー・ヘップバーンが演じるアン王女がシェリーの「アレスーザ」Arethusaを諳んじてから「キーツの詩です」と結ぶと、グレゴリーペック扮する新聞記者が「シェリーだろ」と訂正し、口論をするという場面がある。私はこのシーンに引っかかりを覚えていた。つまり、イギリスのロマン派の詩人を知っている人ならこのやり取りは滑稽だが、知らないと何も面白くない。吉村英夫が『ローマの休日―ワイラーとヘプバーン』(朝日新聞社、1991年)で記憶が間違っていなければ、このやり取りを、新聞記者が王室の女王よりも知識において勝っているのを描写しており、高尚だとしていたような気がする。ところが、これはスノッブな会話ではないかという疑念が浮かんでしょうがなかった。合衆国の当時の脚本家の知的レベルと、大衆がどのように受け止めていたのか、そもそもイギリスロマン派の詩はどの程度の教養と捉えられていたのか。

 それで、『ローマの休日』の脚本を書いたダルトン・トランボは1905年生まれ合衆国育ち、リライトしたジョン・ダイトンは1909年英国育ちだ。『草原の輝き』の監督エリア・カザンは1909年生まれ、ウィリアム・インジは1909年生まれ合衆国育ち。作り手たちはいずれも大卒で、ちょうどバッドとディーニーと同年代である。イギリスロマン派の詩は50~60年代の大衆が娯楽として消費できるレベルのものだったのだと思う。そう思うと、当時の大衆は学がある。おそらく現代人の多くは、この前(2022年)金曜ロードショー早見沙織浪川大輔の吹き替えで演じられたこのやり取りをテレビの視聴者はポカンと見たのだろう。

 『草原の輝き』に戻ると、この山場は、日本で言うと、恋人を寝取られた童貞の高校男子が漱石の『こころ』の音読をさせられて発作を起こすぐらいの通俗的な場面なのだろう。そんなわかりやすい、わかってしまうシーンがやはりこのエリア・カザンの限界だと思えてならない。

 これは余談だが、バーバラ・ローデンの出演シーンがもったいなく感じる。脚本上は、いわゆるバッドとディーニーが親の庇護から離れて駆け落ちしたしたらばどうなるのかの運命を描いたドッペルゲンガーの役回りなんだろうが。

 それにしても、下世話な泥臭い話をすると、ウォーレン・ベイティナタリー・ウッドがそれぞれヴァージンを演じると言うのは極めて信じがたいミスキャストに見える。2023年現在の日本でいうと、成田凌二階堂ふみ松坂桃李広瀬すず北村匠海山本舞香がキャスティングされる事態を超えるほど違和感があると思う。つまりは、ゴシップだが、この撮影がきっかけで婚約までしたというふたりは、それぞれ、ウッドはエルヴィス・プレスリーデニス・ホッパーレイモンド・バーなどと浮名を流すほどだが、ベイティとなるとなんと「1万2775人」と交際したそうだ。この時はデビュー作だったらしいが。トリュフォーが到底女の肉体を知らないとは思えないジャン=ポール・ベルモンドを童貞のバチェラー役で起用した『暗くなるまでこの恋を』(1969)はパリでは不入りになり、代わりに東京ではヒットしたと聞く。なんとも、映画と言うのは不思議なものだ。