映画評『首』(2023)

親分「おい、お前やれよ」

子分「え? おれがすか?」

親分「いいから、やれよ」

子分「じゃあ……」

親分「ばかやろう、何やってんだお前」

 北野武はヤラセの人である。いわゆる、ビートたけしたけし軍団のコントは、親分が子分にわざと馬鹿馬鹿しいことをやらせて、そのあまりにもくだらないギャグを、やらせておきながら「ばかやろう」とボケて突っ込むのである。北野は『御法度』(1999)でさえ土方歳三を演じた際も、「おまえ、やってこい」と山崎丞(トミーズ雅)に女をあてがうようにやらせる役を引き受けているが。『首』(2023)における羽柴秀吉も当然やらせの人として描写される。「なんで急に草履なんか渡すんだよ」、「おまえ、なんだよその演技は」、「おまえ、死んできてくんねぇか」、「親方に張り付いてくんねぇか」、「そのほろをつけて走れば弾除けになる」などと。それはまったくの無邪気な餓鬼大将の延長線上にある児戯である。だが、そこに権力が伴っており、誰もさからえない。そのいじりと言う名の醜悪ないじめをエンターテイメントとして見せているわけである。

 だから、『アウトレイジ』(2010)で中野英雄が指を詰めるだとか、『BROTHER』(2001)で渡哲也の前で大杉連が腹を切るとか、『ソナチネ』(1993)のロシアンルーレットにもそれは通底しているだろうし、この『首』で加瀬亮の信長が遠藤憲一荒木村重切腹を強要するのも同工異曲である。しかしながら、それは芸なのか。体を張っているのは冠者であり、殿ではない。それは殿本人が面白がり、その周りにいる家臣たちが自分たちはそういう目に遭いたくないから面白がるふりをするという内輪ノリ的ファシズムなのである。

 この映画は至極通俗的である。まず、初期の北野武の映画は『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫から「こんなものはシナリオではない」と批判を受けていたぐらい、物語の展開がわかりやすい勧善懲悪のメロドラマとしては不完全であった。が、どう考えても、この構想30年の映画は、サルと哂われる秀吉がやりたい放題の信長を倒すためにそのお小姓たちを焚きつけて戦わせ、その隙をついて天下を狙うという典型的な下剋上アーキタイプをとっている。

 それに輪をかけて撮り方もまたわかりやすい。この戦国時代を青地に赤いテロップで解説が入って始まり、和重と信長の確執は回想で見せられるわ、徳川家康に毒入りの鯛を食わせるシーンではあろうことか別アングルから説明的なショットを入れて繰り返しどうやって難を切り抜けたかをそのうえセリフで説明してしまう。北野武はかつて映画とは素因数分解、つまりは省略であると豪語していたのだが、本作においてはシーンごとにエピソードが凝縮され、説明的な台詞が満載で、かつての『3-4 X 10月』(1990)におけるような戯れの時間は存在しない。『その男、凶暴につき』(1989)のように無言で歩くシーンにあった資本的な消費を逸脱した、俳優北野武のなんとも言えないぶっきらぼうな歩き方が露呈した瞬間と言うのはいささかも訪れない。それはもはや体を動かす自作自演よりも、俳優を使って物語る監督北野武として変貌してしまったことを残酷にも告げているだろう。

そう、中村獅童が扮する茂助が足軽たちに話しかける何気ない長回しから弓矢が急に降り注ぐだとか、俯瞰のロングショットで燃える自宅を訪ねるというのは古典的な映画らしさを醸し出している。しかし、映画作家北野武は古典的がゆえに評価に値するというのはそれこそ笑えない冗談である。