映画評『加恵、女の子でしょ!』(1996)

 何やらパイプを指でいやらしく弄る背広姿の男性教授の後ろ姿が映しだされるところから 『加恵、女の子でしょ!』(1996)は始まる。殺風景なセットに並べられたブラウン管はそれぞれ原色が映しだされている。教授はそのひとつひとつをネチネチと講評していく。それは典型的なミソジニーに満ちたセクシスト的な陳腐な美的感覚で、女性の学生が作った作品は露骨に「女らしさ」や「エクスタシー」を表現しろと猫撫で声で指導し、男性の学生にはまともな作品を作らないと女に置いてかれるぞと発破をかける。その上、男性教員は隙あらば女性の肩をさすったり、チュパチュパ吸った吸い口を触った手で頬をなぞるのだ。そうした醜悪な様子はブラウン管にも投映され、グループショットの中央にいる教員がほとんどセクハラな講釈を観客に向かって垂れ、周りにいる受講生たちはあからさまに嫌悪感を示す。

 本作では、価値判断を下す側にいるのは常に男性である。彼らは教授、ギャラリストパトロンといった地位にあり、容赦なく、作品というよりも、加恵に対して評価を下す。亭主に子供を預けると何事だとか、女の作品だなと全て女性であるという生物学的な偏見が先行しており、まともに扱われないのだ。要は、表現だ、自由だとうたわれているがただ男の欲望を満たしているだけなのだ。おそらく、出光の意識には、美術評論家東野芳明と結婚し別れたのち、急死を遂げた姉が、男性中心社会に実質的に殺されたのだというのがあって、ここまでグロテスクに撮ったのだろう(三木草子、レベッカ・ジェニスン編『表現する女たち』)。このシーンには主人公である加恵もいるが、通常の劇映画のように彼女の視線に従って物語=映像が切り返しによって語られはせず、メタレベルで観客がこの男性中心的な社会がいかに構築されているかを読んでいくように促していると言える。

 場面は変わって、加恵は同じく美大生の夫と同棲(夫婦別姓なので籍は入れていないとみられる)しながら二人展に向けてキャンバスに絵を描いている。最初は互いに黙々と塗り進んでいっているように見えるが、段々と日数が経つにつれ、加恵は家事を任されるようになる。そのため、男のキャンバスのほうが比率が増して画面の半分以上を占め、それに伴って加恵のアートはどんどん領域を狭めていく。部屋も瓶ビールやケンタッキーフライドチキンの箱といった男性の嗜好品で埋め尽くされていく。アニエス・ヴァルダは『歌う女・歌わない女』の劇中歌「パパ・エンゲルス」で「エンゲルスは言いました、男はブルジョア、女はプロレタリア」と告発したように、結婚生活によってパーソナルな自分というものを段々と奪われていくのである。結局、二人展ではまともに作品を発表できず見学者たちからは嘲りの対象となる。

 加恵が受けるこうした抑圧は子供の頃から親に擦り込まれたものだと述懐する。画面内に存在する白い布、ブラウン管のテレビ、皿にその時の回想場面が映し出される。ここで気付くのは、もともと私たち人間は産まれた時は白紙であるということだ。本作は作者自身がボーヴォワールの『第二の性』にインスパイアされて作られたというように、まさに「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というのを前衛的な画面構築によって表象している。

 そうしたフラストレーション、夫を家から締め出し、アーティストとして個展を開くようになった加恵の作品は濃い赤を基調としている。加恵は自分の色で、自分を表現する権利を再び手にしたのだ。