映画評『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)

 この映画の話法として重要なのは何も知らない未熟な少年が、未知の魔法界に足を踏み入れるという点である。

 だから、常にキャメラのアングルは観客が魔法界にいるかのようなところに据えられている。真俯瞰から撮られたクレーンのキャメラがランタンの灯ったボートに乗った生徒たちをフレームにおさめる。クレーンはゆっくりと下降してくのに合わせてキャメラはティルトアップすることによって構図は水平になり、ホグワーツ城を映し出す。

 それから彼らが学校の階段を登るようすを、上から見下ろしている魔女の教授がおり、じれったそうに手すりを触って待ち受けているようすが、ワンカットで描かれている。あと、たまに魚眼のレンズの引きの絵で撮るショットもあったりして、談話室に案内された時の俯瞰、みぞの鏡をハリーが訪ねるシーンに用いられているが悪くない。照明もしっかりコントラスト、バックライトの加減、青やアンバーの光を使ったナイターの表現ができている。ただ、炎を使うならもう少し炎が炎らしく見えるように照明を作るべきではあるがそこは目を瞑ろう。

 この映画はセリフをほとんどマシンガントークレベルに喋る場面が多いが、それにより、リアクションカットが際立っている点も注目したい。たとえば、9 3/4番線のホームでまくしたてるように喋るウィーズリー夫人は息子のロンを紹介するも当のロンはニコニコしているだけ、ハグリットが学校の先生が生徒に呪いをかけるわけがないとハリーたちをなだめるところでもロンは顔をしかめているだけだったりする。

 普通は、俳優を黙っているだけのシーンのために呼びたくはない。せっかく現場に来たのだからセリフを増やすみたいなことをしてしまうかもしれない。だが、監督のクリス・コロンバスはここでは子役の芝居、リアクションを撮り、最終的に編集するとどうなるか考えた上で撮っているのだ。なので、本作はちゃんと効率的に物語を語るカット割りが普通にできている。それは正当に評価すべき点である。

 映画はまずもって絵から語り、それから言葉が語る。ゴダールが『デュラス/ゴダール ディアローグ』で議論していたように。『ハリー・ポッター 賢者の石』ではこの絵で語り、言葉で語りという流れの使い分けができている点も昨今の映画よりもよくできている。

 この映画で言葉から先行して説明されるのはホグワーツ魔法学校、ヴォルデモート卿、禁じられた森、3階の廊下、賢者の石、チェスについてである。それは物語上、説明しなくてはならない。ハリーの立つ舞台装置を効果的に見せ、かつ対峙する試練を際立たせるためのいわば神話作用である。

 対して、この映画で描かれる「魔法」は絵で最初に見せてくれる。ラテン語の造語を唱えて起きる現象、つまりは豚の尻尾が生える、眼鏡が治る、物が浮く、箒が暴れる、鍵が開く、閃光を放つといったエフェクトが先んじて、エクスプレインは後である。(例 ハーマイオニー「基本呪文集第七章よ」)。

 そして、いちばんよく出来ているのは、あのクィディッチというゲームの説明である。ルールは荒唐無稽だ。ずさんな決まり事というのもなかなか可笑しいがそれはともかく、3種類あるボールの特性を見せることから描いている点が見せ方が巧みである。クワッフルはバスケボールのようにパスしてウッドが輪っかに入れと得点と説明すると遠景に見える競技場にそびえるゴールがズームで強調され、ブラッジャーを解き放ってハリーが打ち返して戻ってきたのをウッドが「暴れ玉だよ」と教え、最後にスニッチはゲームのキモなので事細かに話すと動き出すという仕掛けになっている。この言葉と映像の絶妙な塩梅。阿部和重はこの映画を貶していたがそれほど悪いわけでもあるまい。改めて少し見返すと、歩いているシーンのトラッキングのワンカットで早撮りしているのがわかる。

 ファンタジーもの、SFもの映画を撮る上で難しい課題を難なくクリアしている。これらジャンルは基本的にはティーンエイジャー向けのラノベなので饒舌さばかりが際立ってしまう。

 悪い例として挙げている訳ではないが、ロバート・ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでは主人公のマーティはドクがまずもって何が起きているか(実の母親が君に恋をしているからタイムパラドックスが起きる、時計台に落ちる稲妻と同タイミングで車を走らせる、未来では息子が犯罪者になるから止めないと、機関車を改造してタイムトラベルをする、チキンレースに参加して交通事故を起こす等)をセリフで先に明かす。

 この物語が先か、映像が先か、といった問題をなぜ重視すべきなのだろうか。

 「同じものの反復にはどんないい点があるのか。観客は1度目で話を理解しているので、2度目以降は純粋に映像と音響を楽しめるようになります」とスピルバーグの映画について指摘したのは廣瀬純だった。

 この言葉と映像の相関関係は映画とは切り離せないテーゼである。しかしながら、この図式を破った、シニフィエなきシニフィアンは可能ではある。それは『晩春』の壺であり、『汚名』のワインボトルであり、『ブロウ・ジョブ』のジェラード・マランガの顔であり、『インディア・ソング』の映像そのものであり、『ジュラシック・パーク』のショットガンであり、『シチリア』のパン、『フォーエバー・モーツァルト』の戦車である。それらは物語においてなんら機能しておらず、映像として浮いている。そののっぺりとした表層が物語へのアンチテーゼであり、言語を断ち切ったまさしく映画なのではないか。

 と思うのだが、『ハリー・ポッター』に仕方がなく軌道を修正すると、脚本はうまく人物関係と展開をまとめていて秀逸だ。この映画の監督のクリス・コロンバスは『ホーム・アローン』を撮っているが、実はこの『ハリー・ポッター』とも共通項がある。それは浮浪者=アウトサイダーが主人公の成長のきっかけになっている映画であるということである。いわゆる、このコロンバスが監督した3作品はみなしごが主人公であり、崩壊した家族を取り戻すのがテーマである。そのきっかけとなるのは他でもない家族関係が崩壊した年長者(独居老人、ホームレス、森番)の助けによるものなのだ。まさに、ファミリーロマンスである。

 最後に余談だが、ハリー・ポッターシリーズはなぜかお辞儀が反復される。『秘密の部屋』の決闘クラブ、『アズカバンの囚人』のヒッポグリフ、『炎のゴブレット』のヴォルデモートと、礼節をわきまえるべきだという啓蒙なのかわからないが、不思議な繰り返しがある。流石にこれは拡大解釈する余地はない。