映画評『スターマン』(1984)

 ある夜、窓の外には木々を背中に広がる湖がみえる。そこにひとつのきらめく星が落ち、光を放つ。その様子に気づくこともなく、八ミリのホームビデオに映る夫役のジェフ・ブリッジスと自分の姿に目を奪われ、涙する妻ジェニーを演じるカレン・アレンはワインをグラスに注ぐ。映画を見る女性が涙を流す姿を捉えたこの場面の配光は、暗く抑えた影のなかから彼女の眩い瞳の輝きが漏れている。彼女は亡くなった夫の姿に思いを馳せているのだ。すると、庭に光る物体が現れ、ゆるやかな浮遊感のある主観のショットでゆっくりと家のなかへと入りこんでいく。しどけない姿で寝ていたアレンは気配に気づくと、目の前で赤ん坊が徐々に成長していき夫の姿へと変身を遂げる。あまりのできごとにアレンは手に握った拳銃を落としてしまい、それを拾われてしまう。夫を形態模写した「スターマン」は奇態な恰好で銃を構えるや、国連の異星人へと向けたスピーチをそのままに発声する。アレンはそのまま気絶してしまう。メロドラマは脚本の構成上、「知識の不一致 [1]」が起きる。観客は、研究員たちのシークエンスから調査目的でやってきた友好的な異星人であると知りながら、カレン・アレンにとっては未知の存在として現れた既知の存在との間でどう揺れ動くかのサスペンスが作られている。

 この『スターマン』の一連のシークエンスは台詞らしい台詞のないままに始まっている。それはカーペンターの作品を見ていればわかるように、すべては寡黙な画面から導かれている。まず、このアレンの部屋は暖炉の火がゆれ、琥珀色にあたりを染めている。この明確に色彩の構成を意識した撮影と照明は、ラストのシーンから予告あるいは逆算したかのように非常に計算されている。カレン・アレンはスターマンであるジェフ・ブリッジスを乗せ、マスタングを走らせる。スターマンを恐れる彼女はハンドルを握ったまま目を合わさないのだが、その不和は時間が経つにつれて解消されていくだろう。そのうちに夜になると、赤いネオンの光が時折射しこむ。やがて道中、宇宙人を捕獲しようと動く警察の検問に正面から突っ込み、あたり一面を焔の海へと変えてしまい、その中からブリッジスが傷ついたアレンを抱えて現れるショットが撮られている。そうした、誰もが知る聖人をベースにしたストーリーは映像に奉仕する。

 これは出エジプト記を描いた『十戒』The Ten Commandments(一九五六年、セシル・B・デミル、)の神の力によって海が割れる場面のような、いささか冗漫なシーンにも演出できたろうに、自動車が追突してからほんの数ショットで収め、神秘的で印象深くなっている。「神の偉大さ」を示した『十戒』は必然的に映画よりも特撮が前景化し、神秘よりも合成ばかりが際立ったのは言うまでもない。このシーンは彼女らが自動車を走らせる一連のシーンよりもはるかに短いのだ。こうして光の細部が一貫して寡黙に語られているのは練られた脚本とそれに見合った演出意図をスタッフ全員が意識しながら制作した結果である。そうした技術の面でもさることながら、自然の光までもが映画を祝福している。

 モニュメントバレーに広がる雲を背に駆けるトラックの荷台で揺られる二人を包む淡い風景がある。この荷台にはネイティブ・アメリカンの女性が赤子を連れており、その子を一緒に見たスターマンはアレンに、ブリッジスとの間に子供がいたのかどうかと聞くと、彼女が不妊だったことを教える。これがラヴシーンの伏線となっているのは指摘するまでもないが、この古びたトラックが象徴的なのは、この映画で登場した乗り物は宇宙衛星、空軍機、ヘリ、マスタング、バス、パトカー、トラック、オールドカー、列車、キャデラックといったいかにもスピードのあるものから緩慢なものまでさまざまななかで差異をもって、最も疾走感に溢れているからだ。それは疾風が揺れる荷台の上にいる彼女たちを吹き抜けるようすはまさしく感動的だろう。のちに夕陽が彼らの顔を照らすショットも撮り直しの効かない見事な場面だ。この演出には西部劇の駅馬車の記憶がまざまざと生きている瞬間である。ロードムービーとしては宇宙から何万光年も旅をしてきた異星人がさらにアリゾナを渡るというとてつもない超長距離移動を行っているが、ニール・アーチャーが『ロードムービーの想像力』(2022年、晃洋書房)でピックアップした映画群がいささかユートピア的な救いを求めていたのに対し、『スターマン』は宇宙人の宿した子供に、つまりは家庭に希望が託されている。「男性のヒステリー」と糾弾されもするロードムービーがメロドラマとして転化しているのだ。

 もし、『スターマン』を大衆的かつ言語的に語るとすれば、カレン・アレンが宇宙局研究所の人間にスターマンに敵意はないということを伝えられ、涙を流しながら駆けつける場面を作劇するだろう。むろん、洗練された『スターマン』は光のなかでジェフ・ブリッジスが死んだ鹿を甦らせる様子をカレン・アレンが目撃してから、以前の死んだ夫のイメージに引きずられ怯えきっていた態度を一変させている。彼女は違う新たな男を愛し始めたのだ。

 映写機のホームビデオを見ていたカレン・アレンは光を導く素養に恵まれていたのだといえよう。あの瞳がひときわ記憶に残るアレンが、演じるというよりもその存在から主題そのものを体現しているといっていい。その彼女が拳銃を握る場面が本作では二度反復されることに注目しよう。彼女はスターマンを虐げる猟師たちに向かって何のためらいもなく威嚇発砲し、すぐさま助けだす。この威勢のいい身振りは幾度となく見た光景である。それは『要塞警察』のローリー・ジマーが傷ついた肩をものともせずに引き金を引く場面に始まって、『ハロウィン』(一九七八)の包丁を握ったジェイミー・リー・カーティス、『ニューヨーク1997』(一九八一)のエイドリアン・バーボー、『ゼイリブ』(一九八八)のメグ・フォスター、『ヴァンパイア』(一九九八)のシェリル・リーと枚挙に暇がないほどに現れる姿である。彼女らの飾り気のない姿は凛々しいことこのうえない。それはよく指摘されるホークス映画の女性像とも異なるだろう。

 ほか、近年の男性監督による強い女性を描く傾向がその実は、J・キャメロンが『エイリアン2』Aliens(一九八六)から『ターミネーター2』Terminator 2:Judgement Day(一九九一)、R・スコットが『テルマ&ルイーズ』Thelma and Louise(一九九一)から『G.I.ジェーン』(一九九七)へと、それぞれの作家が徐々にその題材を「大きな物語」へと前景化し、女優の身体そのものをスペクタクルとして消費する過激さ[2]と無縁に、傍系的なエピソード足り得ているからだ。

 カーペンターの場合、『エスケープ・フロム・LA』(一九九六)、『ゴースト・オブ・マーズ』(二〇〇一)と二作続けて出演したパム・グリアでさえ、実質的に性転換したキャラクターを演じており、彼女の豊満な肉体を性的にエクスプロイテーションさせていた作品群のパロディを演じさせているのだ[3] 。それにこの『スターマン』に登場する協力的な研究員チャールズ・マーティン・スミスがいつも葉巻を吸おうとするも止められて吸えないという滑稽なギャグの繰り返しが、命令に背いて二人を逃がした責任を咎める将軍のリチャード・ジャッケルに、満面の笑みで煙を吐きつけるヒロイックな行いへと転化される様子を見ればよい。それはカート・ラッセルが演じてきたキャラクターの数々とも共有する動作なのはもちろんのこと、誰にも平等に与えられた幾らでも代替の効くアクションなのである。だから、カーペンターを論じるとなると「アウトロー[4]」の一語を用いて説明せざるにはいられなかった評論の数々は疑わねばならないだろう。そこにあるのは身振りの発見なのだ。

 警察署を包囲したギャング団を相手に、警察官と秘書と悪漢が手を組み、退ける『要塞警察』。署内は電力を絶たれ、薄暗い。悪漢ダーウィン・ジョストンは口癖の「煙草はあるか」"Anybody got smoke? "と何の気もなしに言う。女秘書ローリー・ジマーは黙ったまま煙草を咥えさせてやる。「火は?」"Got a light? "と続ける男に、マッチの火を片手で点けてやる。この挿話が『脱出』To Have And Have Not(一九四四年、ハワード・ホークス)あるいは『アルファヴィル』Alphaville(一九六五年、ジャン=リュック・ゴダール)の引用であるかどうかは問題ではない。単なる光景にすぎないのだが、「煙草あるかい?」というセリフによって、いつ襲われるかわからない危険な状況とか、物語のしかるべき流れから逸脱した時間が現前してしまうことが重要なのだ。

 『遊星からの物体Ⅹ』を恋愛劇に落としこんだ『スターマン』は徹底した抒情性を帯びた閃光の氾濫が起こる。カレン・アレンが、亡き夫を模した宇宙人ジェフ・ブリッジスをつれて、アリゾナの大地に連れだす。すると、ガス状の惑星型円盤が空を覆い、粉雪を散らしながら辺りを蒼い色に染めあげる。別れの時を悟った二人は煌めきに照らされながら抱き合うのだ。かつて、ハリウッドの撮影所が機能していた時代の白黒映画では、後景から射し込んだ逆光が、男女の輪郭を浮きあがらせた。こうした繊細な画面の設計は、光に無感覚であっては決してできないし、紛れもなく映画にしか訪れようのない光景なのだ。

 

[1] ウォーレン・バックランド著、前田茂、要真理子訳『フィルムスタディーズ入門――映画を学ぶ楽しみ――』晃洋書房、二〇〇七年、一五四~一五六頁Warren Buckland,FILM STUDIES,1998

[2]樋口泰人「その中でも強烈な印象を残すのは、やはり『ターミネーター2』でのマッチョな肉体だろう。微妙な心理描写よりも、人工的な肉体の強い動きこそが映画を支配するのだといわんばかりの、シェイプアップされ、まさにスペクタクルと化した肉体を、この時彼女{リンダ・ハミルトン}は持った。(略)その容姿とアクションこそ、まさにキャメロンがアメリカ映画に持ちこんだ新しい女性像を象徴するものだった」稲川方人編、樋口泰人青山真治阿部和重黒沢清塩田明彦、安井豊著『ロスト・イン・アメリカデジタルハリウッド出版局 二〇〇〇年、「リンダ・ハミルトン」四四六頁

[3]名嘉山リサ「ブラックスプロイテーション映画のアクション・ヒロイン――パム・グリアとタマラ・トンプソンの身体をめぐって――」加藤幹朗監修、塚田幸光編『映画学叢書 映画の身体論』ミネルヴァ書房、二〇一一年、九五~一二〇頁、所載

[4] 前掲『ジョン・カーペンター恐怖の倫理』収載「映画監督ジョン・カーペンターのすべて」三四~四〇頁