映画評『哀愁の湖』(1945)

 普段、映画を見ていて戯けた話だと思うことはあまりない。とは言いつつも、五所平之助の『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933)が伏見晃があまりにも泥臭く通俗的な脚色を施していて、一高生が惚れた旅芸人の女が旅館の亭主の下に身体を預けることになるのではと案じる。亭主から息子の嫁として大事にするからと諭され、一高生は身を引くという、単なる筋書きの消化でしかないシークエンスを見せられてまったく画面が入ってこなかった。この映画は演出においても、ローポジから地面の線を高くした絵画的なアングル、温泉地を俯瞰から狙ったカットといった意欲的な見せ方をしているも、肝心の何を見せて何を見せないか、何を語り何を語らないかの判断が、みにくかった。

 『哀愁の湖』Leave Her to Heaven(1945)はそうした類いの映画である。病的なファザコンの女性(ジーン・ティアニー)に「死んだ父親に似ているから」求婚された作家の男性(コーネル・ワイルド)はそのまま結婚。女は男を束縛しようとしていたが、男には足の悪い弟がいて、女はその世話をせねばならず、せっかくの生活も台無し。コテージに連れてかれるも、部屋は薄くてぜんぶ筒抜けで、挙げ句の果てに客人まで招く。耐えかねた女はわざと義理の甥が溺死するように仕組み、夫の子を孕んでも階段から落ちて流産。夫は夫でその妻の妹と小説をともに書くほど関係性を深くしたため、妻はあたかも謀殺されたかのように毒を飲んで死に、裁判沙汰に。と大筋はこんなものだ。

 それにしても、弟の世話を妻にすべて押し付けて、のうのうと小説を書く男があまりにも酷い。恐らくベストセラーの通俗メロドラマ作家なのだろうが、留学していたインテリのくせに異常な愛に気がつくもの遅すぎるし、そのうえで妻の妹と関係性を築くあたり、どうかしている。

 そのせいで、ジーン・ティアニー演じるこの妻のキャラクターが、劇中で「Monster !」と罵られるような悪女とも狂女とも思えない。むしろ、この作家に踏み躙られて、こうした凶行に及んだと思えて、正当性があると思えてしまう。そもそも、この女が罪を犯す前にしていた奇行も大して病的ではなく、旦那が高校の頃付き合っていた女とどうだったか気にする、医者に義理の甥を介護する苦しみを訴える、コテージで自分を蔑ろにして身内とはしゃぐ夫の姿に怒るというだけである。これが気狂い沙汰とは言えない。

 この映画の問題は演出の凡庸さである。たとえば、はじめ列車でティアニーとワイルドが出会い、見つめ合うシーンの間延びした長回しのクローズアップ頼みで見せ方としてはもう呆れるほど退屈だ。ティアニーが落とした本を拾う動作でワイルドが近づく導線も醜く、なぜか本が落ちた瞬間にロングショットに引いて2人の位置関係をいかにも説明する編集が悪い。他にも、ティアニーが階段から身を投げるシーンのタメの演出も弱いし、それを目撃した駆けつけるコーネル・ワイルドたちのリアクションカットがないことによって、劇的なシーンなのに悪い意味で演劇のように即物的である。たぶん、どのシークエンスもそうした問題を抱えていて死んでいる画面が続いているようにしか見えなかった。それに、ヴィンセント・プライス演じる検事の独壇場の撮り方もショットサイズが効果的でないし、急に入るジーン・クレインのクローズアップも審美的だしで、ザナックプロデュースのスター映画(『西武魂』(1941年、フリッツ・ラング)、『荒野の決闘』(1946年、ジョン・フォード))特有のくどさがある。

 ただ、ティアニーが甥が溺れ死んだあとに広がる無情な水面の揺れを前にしてサングラスをすっと外して、あどけない艶やかさに彩られたアサガオのような素顔を露わにする瞬間は、もうそのスターそのものの神話的なアウラが轟いている。

 この映画は彼女がシーン変わりのたびに衣装を着替えていて、白い流れるようなドレス、モックネックのセーター、ネルシャツにジーンズ、水着、ネグリジェと衣装のケイ・ネルソンによるファッションショーとしては見ていられるかもしれない。どの衣装も(男女問わず)肩パッド、大きな襟、鋭いVネックというデザインで80年代のようにキッチュだ。