エッセイ「ゴダールの古典性」

 『勝手にしやがれ』でシャンゼリゼ通りを歩くジャン=ポール・ベルモンドジーン・セバーグを、郵便局の台車に偽装したキャメラの移動車から広角レンズでぐらぐらと揺れたフレームから撮った頃のゴダールとクタールの創造的なコラボレーションは一度切りだった。彼の映画からはいわゆる不安定さが徐々に消えていくのがわかるだろう。『男性・女性』ではキャメラワークに拘り何度もリテイクさせたり、『軽蔑』ではレールにキャメラを載せて滑らかな横移動をさせたりする演出は撮影所の映画と感覚が近い。いわゆる、完成度を求めているのだ。

 ジャン=リュック・ゴダールの映画は古典的なミュージカルのように画面を構築している。『はなればれに』の若者たちが駆けまわるルーヴル美術館、『ウィークエンド』の大渋滞が起きた道路、『アルファヴィル』のプール、『カルメンという名の女』の銀行での銃撃戦、『ワン・プラス・ワン』の廃車置き場、『中国女』の大学、『マリア』の体育館、『探偵』のホテル、『万事快調』のスーパーマーケット、『パッション』の絵画を模した撮影現場といったさまざまな人間が入り混じっても不思議ではない慌ただしい場所を舞台に設定する。こうした作劇はほとんど振り付けを見せるために発想されているといっていい。ゴダールはいわゆる上演の作家といっていいだろう。彼はそれを映画的なスペクタクルとして提示する。それは明らかに撮影所の古典的な映画への憧憬によって行われていると見ていいだろう。

 ゴダールの映画のそうした古典性は作品を追うごとに強まっていき、やがては『映画史』のような引用だけで制作してしまうようになる。

 彼がいかに現代的な編集ソフトやスマートフォンの内蔵カメラで撮ろうと、その価値判断の基準はあくまでも劇映画の様式に収まってしまう。『イメージの本』や『さらば愛の言葉よ』を見て素人臭い映画だと誰も思わないように、幾ら足掻こうとゴダールは映画の中に閉じこもってしまっているのだ。それがシネフィルの限界なのではないかと最近は考える。