映画評「春画先生を抱きしめたい」

 「抱っこするのが多かったよね」と北川景子錦戸亮に話を振り、車椅子から身体を持ち上げるのが反動もつけることができないから大変だったと語る。この『抱きしめたい』(2014)の特典映像のツーショットインタビューは極めて貴重な内容であった。

 どこまでもタイトル通り「抱きしめたい」、つまりは「抱擁」を描いた映画なのである。この映画が凄いのは錦戸亮北川景子を持ち上げてから運んで下ろすまでというのを基本的にワンカットで見せる。編集でいきなり抱き抱えているところや、あるいは抱き下ろすところで繋いでもいいわけだが、実際に彼女を抱きあげるようすが紙芝居がごとき止まった写真や絵としてでなく、運動ととして映画として提示される。そして、この抱っこというのは介助の一環として行われるごく日常的な身振りなのだが、カレー屋で北川をテーブルまで運ぶ姿を他の客からの好奇な目に晒されるシーンが設定されているように、2人のただならぬ関係性を想像させるというか予告しているわけだ。

 ボードリヤールが銀行強盗の真似事をした者はたとえ犯罪を犯す気がなくとも警察に射殺されるだろうということを書いていたのを思い出すが、わかりやすい例で言うと『ビーン』(1997)でMr.ビーンが空港で懐から拳銃を抜くかのような仕草をしただけで警察から追われるというギャグシーンがあったように、それが本意でないにしろ、行動が何かの心理を物語っているかのように錯覚するわけだ。

 つまりは、この『抱きしめたい』が発露する抱く行為が省略されずに描かれたのはそうした意図、意味合いがこめられているとみてよいだろう。だから、回転木馬の場面よりもこの積み重ねが見ていて愛おしかったといってもよい。

 それで、この映画には全体を通して長回し偏重である。長いだけの絵を繋いでいってこれは反テレビの映画ですというような自堕落な緊張感のない演出に陥りかねない。私が思うに長いカットを使ったら肝心なのが次のカットがどのようなものかということだ。この映画では、風吹ジュン演じる母親に結婚を申し出る時に殺風景な机の上で延々と芝居をするシーンがあるわけだが、母親がテープを見せる段になると、錦戸亮北川景子の手が重なるアップが入って、カメラがどんでん返してビデオを見るシーンに映るので、ちゃんと寄り引きのカット割が計算されていて、実によくできていると思った。客観的なアングルから、2人の個人的な世界へと収縮していく、ちゃんとした見せ方である。

 それに、あの赤ん坊を手に抱いて現れる北川を迎えるシーンのステディカムのこれまた長回しも、普段は固定か、レールを敷いたトラッキングが多いなか、荒々しい撮り方だから、あえての手持ちに近い迫力の、ダイナミックさが良かった。このシーンの俳優陣のリアクションがフレッシュだと思ったのだが、どうやらツーショットインタビューによると、塩田明彦監督はテストなしいきなり本番で撮ることが多かったという。俳優がどういう風な芝居をするかも分からずに、このシーンを撮ったとおもえるようなカメラの動きだったので、おそらくここは本番で撮ったに違いないんだろう。

 いくつかのシーン、たとえば幼稚園で俺たち付き合ってますと宣言するところや道の駅のベンチで話すところ、空港の横移動のカット割りは正直どうかと思うが。あと、なんとも作り物くさいのが、かつての恋人とレストランで話しているようすを目撃されて、喧嘩する場面だが、これは錦戸亮のお気に入りのシーンだそうなのだが、なんとも無理矢理ドラマチックにした感じがして好みではない。

 この映画はかねてより見たいと思っていただけに、非常に淡々とした作りで、もう少し、フィジカルの面のハンディキャップがあるのだがら、描くところを絞ってもっと濃密にして見たかった、惜しいと思ってしまったのが正直なところである。

 そして、『春画先生』(2023)を見に行った。塩田明彦はただ映画の中で春画を絶命させてしまった。誰がヒッチコックの『レベッカ』(1940)や『丹下左膳 百万両の壺』(1935)からのショットを引用しろと命じられたのか。また「淫靡」だとか、「ひたすら」とか「猥褻にして優雅」だのと抜かす芳賀を演じる内野聖陽の演技はあからさまに蓮實重彦のパロディに他ならず、「かつてハリウッド映画にはヘイズコードというのものがあって、男女が同じベッドにいるのを映してはいけなかった」などと。それはシネフィルへの媚びだ。

 たしかに、『抱きしめたい』にもいくつか『晩春』(1949)の横並びになって寝るシーンとか、『軽蔑』(1963)の撮影秘話である倒立歩行とかが映るが、それはあくまでも、メインディッシュではなく、ちょっとしたイースターエッグみたいなものだ。

 そして、かの映画は春画をただ画面にディスプレイするのみで、まともに構図として活かされることがない。その身体性を戯画として描いた滑稽さも猥褻さも欠けた再現に留まるばかりで、この世にははっきり言って馬鹿げてる体位が存在し、それを絵にすればよいものを、少しばかりアブノーマルなシチュエーションで正常位、騎乗位を見せるだけというなんとも愚劣な真似に終始している。この映画の発露する身体性は『抱きしめたい』には及ばない。