歪んだ貌の果てに
エイミー・アダムスの頭身は、ハイアングルあるいはローアングル、広角レンズによって歪められ、4.5頭身の醜い姿に映っている。
映画は、彼女の身体を戯画化したのみでは飽き足らず、逆光によってターコイズ色の瞳を輝かせ、まさにビッグアイズへと変貌させているのだ。
そうした視覚的な仕掛けがあって、それなりに楽しんだものの、会話の場面が単なるカットバックの連続で、あまりに退屈で、退屈でしょうがなかった。
あらゆる場面で、カメラは舞台装置の壁によって縛られ、窒息死している。
増村保造、小津安二郎といったスタジオ時代の映画では、望遠レンズで俳優の顔を捉えるために、壁を取っ払う。
それによって起きた空間=時間的なズレこそが映画なのであって、まるで金のない学生映画のような画面に首を傾げた。
その舞台装置が魅力的ならまだしも、実に薄っぺらな、絵に描いたようなというべきか、奥行きと横幅を欠いた瑞穂らしさばかりが目立っている。
家具工場で、カメラがクレーンでトラックバックした時の酷さは目をつぶりたくなる。
レイモンド・バーそっくりのゴシップ新聞記者のいるオフィスを見よ。『ブルーガーディニア』や『ヒズガールズフライデー』に遠く及ばない。
何より、照明というか、デジタルの感度が鈍い。
撮影監督ブリュノ・デルボネルが『ハリーポッター 謎のプリンス』同様、ゲームみたいなノリの悪い中途半端な配光をしている。クロースアップの時に逆光を配しているが、とにかく夜の照明が不味いのだ。
この映画は多くのショットを『サイコ』から引用している。
エイミー・アダムスがトランクに金を詰め、クルマに乗って、荒野を走り、唇をいじる仕草(『サイコ』以前の映画で唇をいじる芝居を見たことがない)を見せることからもそうだと言えるだろう。
あと、しつこいが、街頭のロングショットの時の人物らクルマの動かし方は、見られんもんでもなかったかな。
こうした多くの視座から見ることができる『ビッグアイズ』は、多くの物語だけを語ってればよいと勘違いした映画よりは、豊かであるともいえるだろう。