映画評『ヨーロッパ横断特急』(1966)

 陳腐な物語の実演をさらに皮肉がましく追体験する。この映画の監督を務めている男が脚本家として出演し、トラティニャンがほぼ本人そのものの役で空っぽの箱を持ち、行く先々に現れる娼婦に、悪党に、刑事に翻弄される。すべては組織が彼の力量を確かめる為に仕組んだ罠なのだ。    

 これは言うまでもなく誰もが既に知っているような、呆れ返るほどに紋切り型のストーリーである。物語なんてものはもう既にすべて語られていてわざわざ新たに作られる必要はないはずなのに、つい人類というものは芸もなく消費する。それをあからさまに居直って自己言及を繰り返してもまだ物語からは囚われ逃れられない。  この映画はこれから起こる事件がすべてセリフないしは、雑誌の写真や漫画、新聞記事、ジェームズ・ボンドのポスターによって予示され、ますます作り事であることが誇張される。  アントワープの展望はすべて絵葉書のように静止した構図でありふれている。広い広角の画面で示される港街はそのままに映される。  

 マリー=フランス・ピジェとの情事は、カット毎にベッドの脇から脇へと飛び、鎖を巻いたり、派手な下着を着せられ、ちょうど四肢列断された死体のように断片として示される。瞳や唇を大きく映しても喘ごうとまったく薄っぺらで何もない。それに彼女を犯すトラティニャンの歩み寄ってくるアップも組み合わされて死んだイメージが幾重にも重なる。まるで実写で描かれた漫画を読んでいるようだ。  トラティニャンが拳銃を逃げながら片手で構え、それから左腕でカバーしながら撃ち、そして膝をつく。こうした一連の動きもすべてポージングにすぎない。メイドの女にカバンを触られて、すっと避ける仕草もまったく月並みで即物的である。  

 こうした傾向は露骨に通俗を狙ったストーリーを含めて漫画家でもある石井隆の映画と似ているかもしれない。だが、このロブ=グリエの発想はあくまでもフィルムを使ったコミックであり、石井がコミックをフィルムで撮ったのとは異なる。  それにしても作為的な編集のクロースアップの入り方だとか、トラティニャンとロブ=グリエたちが出会す場面のありきたりなズラしかただとか、この絶望的なまでに創意工夫もありもしない凡庸そのものな映画を面白がる感性もまたスノッブなのかもしれない。なにしろ、この映画は当時ヒットしたのだ。