映画評『Red』(2020)

 『Red』と言うからには、貪りあいながら擦りながら熟れて赤々と熱っていく唇と唇との交わりを表しているのかと思いきや、単にグレーディング、ライティングのほどよい按配の調節に過ぎず、じゃあファーストカットの黒ずんだ布切れをまさかフィクションとしての赤の豊かさを示しているつもりなのかと呆れ果てる。いずれにせよ、このふざけた濡れ場の撮り方はありえない。

 脚本が端的に優れていて、なんちゃらソバの蒸気をエモーションを醸し出す為に使ってみせたり、モックアップの家の窓から妻夫木を写して見せるジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)経由のサミュエル・フラー監督『四十挺の拳銃』(1957)オマージュをやってのけてしまうあたり、池田千尋はシネフィルである。柄本佑の場面は物語と一切関係ない馬鹿馬鹿しいシーンで可笑しい。

 ただ、この映画の三島という監督は何なんだろうか。わざと崩しているのか。夏帆が葬式の後、泣きつく娘に屈んでからカッティングインアクションで立ち上がり、去ってゆくのを間宮翔太郎が成瀬目線で見送る場面といい、とりわけ巧いわけではないが、どこか寄り添うような手持ちのタイミングも、ダメでダメでしょうがない映画と比べればベターではあるものの足りない。

 それとだが、男優の芝居というか振る舞いが皆、一辺倒に余裕を持った絵に描いたような理想の男性像を模していて好きではない。衣装やヘアスタイルも起因していようが。