論説「映画痴人 蓮實重彦」

論説「映画痴人 蓮實重彦

 

A 表層批評の紋切り型

 蓮實重彦の表層批評はコンテクストがあってこそできる放言にすぎない。文芸批評における『夏目漱石論』(講談社文芸文庫、二〇一二年)ならば作家の伝記的事実に基づいた解釈を否定し例えばあえて「横臥」に着目したり、『大江健三郎論』(青土社、一九八〇年)においては政治性や寓意を無視して「数字[一]」にのみ触れる遊戯、曲芸だ。それは映画についても同じことで、ジョン・フォードの映画といえば『真珠湾攻撃』December 7th(一九四三年)、『ベトナムベトナム』Vietnam! Vietnam!(一九七一年)といった作品を完全に黙殺して恣意的に選んだ商業的な劇映画に限って「投げること」だの「動物」だのについて飽きもせず論じ[二]フリッツ・ラング作品となると「ドイツ表現主義」よりも「円環[三]」のダイアグラムに終始し、はたまた『七人の無頼漢』を撮ったバッド・ベティカーともなれば「七の奇蹟[四]」とその作品群の本数=上映時間が「七本と七七分」だからと祝福される。彼はそれらを「フィルム的現実の反復[五]」と名付け、映画の中で起きている当たり前の事象を関係づける。そうした彼の批評はアーロン・ジェローの言葉を借りると、「印象批評のつらなり[六]」にしかみえない。蓮實シンパの阿部和重が「これしかないという論じ方[七]」と言うような、絶対的な答えを割りだしているかのように疑似科学的なレトリックを用いて印象操作をしているだけである。

 そのパフォーマティブな言動はさまざまな人を惹きつけた。加藤幹朗はフリッツ・ラングのハリウッド時代の映画監督作品が「22」ということに着目し論を展開させたこともある[八]。こうした出鱈目は既に評価されつくした作家がいるからこそ成立しているだけである。到底、アカデミズムへの挑戦たりえるはずもない。言ってしまえば映画青年のたわ言である。「フィルム的現実」とやらは、いくらでも捏造が可能なこじつけなのだ。『「バカ」の研究』でニコラ・ゴーヴリが「(略)コーランには19、聖書には7という数字がそれぞれ数百回ずつ出てきて、特別な意味があると思われています。でも統計学的に見れば、あれほど分厚い本にそのくらいの回数は出てきてもちっともおかしくありません[九]」というように、テクストに「数字」や「円環」が執拗に繰り返されたとして、それはまったくの偶然を基に作られた迷信である。

 蓮實が「論文[一〇]」と言い張る「評論」はすべて学術的な価値はない。クリス・フジワラでさえ「もちろん蓮實は高名な学者だが、映画批評家であるときの彼は学者ではない。蓮實の本をアカデミックな仕事と捉えるのは、英語圏の映画研究の文脈においては無理筋というものであろう。(中略)蓮實の批評において感動なるものに与えられた優位性が、映画研究での慣習的な感動の位置づけと齟齬をきたしている、ということなのだ[一一]」と評している。

 蓮實重彦は映画について都合よく物語化するにあたって、あまりにも事実を捻じ曲げている。彼は『批評のトリアーデ』(リブロポート、一九八五年)の座談会で江中直紀に「蓮實さんは本をつくるさい、「はじめに」と「終わりに」をよくおつけになりますが、あれはするとこれから開始されるもの、いま終了したものがじつは「物語」ですよというカッコ括りですか。つまり本文全体を「物語」としてカッコにくくる[一二]」という質問を受け、「そうです。その形式性からいって、もっとも正統的な「物語」としての批評を提出しているつもりなのです[一三]」と返している。

 『ジョン・フォード論』でダグ・ギャラガー、ジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレのエピソードを裏付けとして、ジョン・フォードがニューヨークの映画批評の界隈では過小評価されていたとする論述がある。木下千花は「イメージとしての妊娠──ジョン・フォードにおける僻地分娩の主題[一四]」の注で「しかし、その挿話は一九七〇年代ニューヨークの映画文化全体のフォードに対する冷淡さや忘却、反発を示唆しているとすると大きな違和感がある[一五]」と否定しているように、真っ赤な嘘である。あくまでも、蓮實重彦蓮實重彦による蓮實重彦のための「敵討ち[一六]」を展開するために脚色しているだけなのだ。

 『ハリウッド映画史講義』も同じだ。この本は現場たたき上げの職人たちが巨匠として席を連ねるハリウッドに、大卒で演劇を齧ったインテリたちが集い、赤狩りによって作家生命を断たれていく悲痛な悲劇が描かれている。アメリカ映画というものが国家によって弾圧されていき、さまざまな変貌を遂げていったことが説明され、きわめて政治的だ。「翳りの歴史を擁護するという姿勢の背後には、おそらく、抹殺の意志が働いている。それは、ハリウッドという神話的な都市の名前を映画の歴史から永遠に抹殺せずにはいられないという意思にほかなるまい[一七]」とあるように伝統的なハリウッド映画へ引導を渡す、終末論[一八]といってもいい。とはいいながらも、ウェイン・ワンの『スラム・ダンス』Slam Dance(一九八七)、ロブ・ニルソン『SIGNAL 7』Signal 7(一九八三)、クリント・イーストウッド許されざる者』Unforgiven(一九九二)といった保守的な監督ばかりに感傷的な郷愁から高く評価しているのは明らかに蓮實の限界である[一九]。今日の視点から言えば、彼らが映画史上において、無視しがたい重要な作品を残したとは到底思えない。

 それに注意すべきなのは、この本を含め蓮實は映画史を単純化しすぎている点である。「映画における男女の愛の表象について-‐ヘイズ・コードを中心に[二〇]」もそうだが、これらはすべて自主検閲によって、保護によって映画の表現が高められていたという考えに依拠している。

 映画研究者デヴィット・ボードウェル&クリスティン・トンプソンの『ハリウッドの再発明[二一]』(未邦訳)を読むと必ずしもそうではないことがわかる。彼らによれば一九四〇年代頃のハリウッドは工場というよりはサロンであり、スキーマが形成され、さまざまなストーリーやアイディアが蓄積されていた。したがって、四〇年代の野心的な製作者たちは比較的検閲が緩和されていたこともあって、時間軸の混乱、視点の移動、直接話法など、一九三〇年代の直線的=客観的=シームレスなストーリー展開の規範を破ってみせたのだと説明している。四〇年代というのはハリウッドがパウル・レニの『最後の警告』The Last Warning(一九二九)におけるような、フラッシュ・バックに視点移動が用いられたサイレント映画への復古なのだ。それは文学や演劇におけるモダニズムの影響も忘れてはいけないのだとされる。

 『ハリウッド映画史講義』の「物語からイメージの優位」においてはオーソン・ウェルズが『市民ケーンCitizen Kane(一九四一)が唯一視覚的な作品の代表として挙げられている[二二]。ボードウェル&トンプソンによると、サム・ウッド監督の『我等の町』Our Town(一九四〇)は美術監督ウィリアム・キャメロン・メンジースによるバロック式のセットによる不規則な配置、撮影監督バート・グレノンによる極度のクローズ・アップやロー・アングルに加え、投影される影の視覚性は『市民ケーン』よりも先行しており、来るべき変化の兆しだったのではないかと提起している[二三]。そのほかにも、クラレンス・ブラウン監督『エジソンという男』Edison, the Man(一九四〇)、アーヴィング・ライス監督『混雑した一夜』One Crowded Night、ボリス・イングスターの『三階の見知らぬ他人』Stranger on the Third Floor(一九四〇)が実験的な作品の例として示されているのも重要なことだ。鳴り物入りで演劇界の神童が発表した『市民ケーン』は視覚的映画の金字塔かもしれないが、起源ではないのだ。

 加えて、「華麗な衣装も壮大な装置もことさら視覚的に誇張されることなく、呆気ないほどの慎ましさで物語に奉仕するのはハリウッド映画のイデオロギーにほかならず、ヨーロッパ系のアルフレッド・ヒッチコックフリッツ・ラングさえもが理解したその倒錯性に同調しえず、ショットそのものに「絢爛豪華」な輝きをこめてしまったが故に、オーソン・ウェルズアメリカから受け入れられなかったのである[二四]」というのも事実を歪曲している。

 『ハリウッドの再発明』では、とりわけ第七章でアルフレッド・ヒッチコックの超=視覚的=音響的な『白い恐怖』Spellbound(一九四五)が掲げられている。長い通路に幾重にも重なる扉が開いて愛を表象するこの作品は視覚効果が際立っている。サルバドール・ダリも関わったシュールな悪夢は、テルミン、ソノヴォックスを駆使したミクロシュ・ローザの音楽はアヴァンギャルドそのものだ。トンプソン&ボードウェルは、この作品がカーティス・ハリントン、マヤ・デレンケネス・アンガーを勇気づけたに違いないだろうとし、四〇年代の視覚的な映画を数多く教えてくれる[二五]

 蓮實はこうした視覚的な映画を見ている[二六]にも関わらず、「それは、あたかも映画が視覚的なメディアであることを否定するかのように、イメージの独走をおのれに禁じ、もっぱら説話論的な構造の簡潔さと、そのリズムの経済的な統御に専念するものがハリウッド映画だという定義にほかならない[二七]」という自説を訴えたいがためにあえて無視している。      

 なぜ、蓮實はそのような定義に執着するのだろうか。彼の「21世紀の映画論」という講演によれば「画面の視覚的な効果からその物語的な機能の充実へという映画史的な変化が生きられていたという事実[二八]」があるのだという。蓮實は「伊東大輔から山中貞雄」、「プドフキンからマムーリアン」、「WBミュージカルからRKOミュージカル」、「『メトロポリス』から『スピオーネ』へ」と、イメージから物語へと移行する現象が「大きな流れを形成しているのは誰の目にも明らか[二九]」だと主張したわけだ。残念ながら、『ハリウッドの再発明』に目を通せば、映画史は容易く図式化できるほど単純ではないことがわかる。

蓮 實とボードウェルのどちらが正統的な映画研究者かは言うまでもないことだ。たとえば、蓮實は『汚名』をRKOだから低予算映画だと断じている[三〇]が、残念ながら『ハリウッドの再発明』によると「メジャースタジオはその興奮を持続させるために、いくつかの方法を打った。「より多くの映画を作るのではなく、より大きく、派手な映画を作るのだ」という決定に基づき、二本立て番組のうち、60分~70分のB級番組の数を減らした。この削減は政府によるフィルム原料の配給に負っているが、戦略的なものでもある。B級はレンタルされるのみだが、A級は興行収入の何割かをスタジオに還元しなければいけなかった。さらにA級は入場料が高い、一流劇場で上映された。A級のほうが投資効果が高く、スタジオはトップ・スターを出演させ、そのギャラもそれに応じて上がっていった、一流スターの標準的な報酬は、一作品あたり一一万ドル~一五万ドルだった(二〇一六年時点での通貨換算において最低でも百五十万ドル)。『汚名』(一九四六)の場合、ケーリー・グラントの報酬は現在の七〇〇万ドルに相当する[三一]」という記述を読めばすぐに間違いだとわかる[三二]

 確かに、蓮實はジル・ドゥルーズマルクス・ガブリエル、スラヴォイ・ジジェクといった哲学者よりは映画に精通しているのかもしれない。とはいえ、列記とした専門家ではないのは変わらず、同じ穴のムジナである。

 

B 二重螺旋の歪んだ映画史観

 歪んだ映画史観に立脚した蓮實の映画批評の言説は二重規範の極みである。そのうえ、歴史修正主義者とでも言うべき振る舞いが目立つ。かつて『わたしのSEX白書 絶頂度』をワーナー・ブラザーズの活劇を思わせるとまで言うほどにっかつロマンポルノを高く評価していた[三三] かと思いきや、後年になると「ぼくは、マカロニアン・ウエスタンのなかに面白いものがかなりあり、同時に日活ロマンポルノのなかにもかなりものがありながらも、あれは結局のところ映画が機能しているという幻想だけを煽りたてた、やはり映画史的にいうと間違いの運動じゃなかったかという気がしているわけです[三四] 」と糾弾する。それに今でこそ「アメリカ映画の作家で、僕ははっきりこれは駄目だという人がいて、この人はイギリス生まれですが、リドリー・スコットが大嫌いなんです。(略)僕はデビュー作の、盛んにチャンバラする『デュエリスト 決闘者』からずっと、絶対駄目だといいつづけているのにみんないいって言うんです。フランスでも高く評価されている。それに比べて僕は、これはまだ世界的に少数派なんですが、弟のトニー・スコットが大好きなんです[三五] 」と、スコット兄弟の弟を盛んに蓮實が称揚してきたかのように錯覚してしまうが、実は「イギリス系の合作映画の作り手のほうが、作品のスケールに見あった職業意識に徹しているというかつてのハリウッド的伝統を踏まえていはしまいかという事実であり、それは『エイリアン』でリドリー・スコットに接したころから感じられた現象でもあるのだが、(略)今日のイギリスの作家たちの生きる映画的環境はハリウッドのそれよりもはるかに濃密であるかも知れず、[三六]」 というようにリドリーに一定の評価を与えていたのをすっかり忘れてしまったようだ。彼は後になってあたかも自分が真っ先に評価していたと大口を叩くことがあり[三七] 、まともに需要史を追っていないと騙されてしまう。

 最終解脱者さながらに蓮實がアメリカ映画の死を声高に唱えているのは先述した通りだ。なかでも、一九九二年雑誌「A Hard Days Night」五月号で「国際的な連帯によってアメリカ映画への作家主義的な「期待」を捏造しなければならないほど不幸な時代に、いまわれわれは生きているのである[三八] 」と切り捨てているのは思わず頷かずにはいられない。

 だというのに、二〇〇四年の阿部和重との対談では当時ブームだった韓国映画の中で「力のある人」としてチョン・ジュウン、イム・グォンテク、キム・ギドクの名を挙げてすかさず「そういう力が一番あるのはやはりアメリカなんだから、ブッシュがどんな馬鹿なことをしようと、全力でアメリカの映画を支えなきゃいけない[三九] 」、「フランス映画は七〇年代に終わったんじゃないかと思います。もちろんそれなりにちょっと面白いというものはあるんですが、ゴダールにストローブとユイレなどせいぜい数名でしょう。それ以後の世代が育っていない。でも今、アメリカ映画について喋るとしたら、最低二十人は喋らなきゃ駄目です[四〇]」。信じがたいことに、「アメリカ映画」から乳離れできていないのだ。

 こうした性向を、入江哲郎はこのように分析している。「それにしても、「73年の世代」に仮託するかたちで語られた、奪われた「アメリカ映画」に対する「情動的な執着」と、「たんなるアメリカ映画」はつねに面白いものだと信じるという「楽天的な思いこみ」とは、いったい、なぜ、蓮實重彦というひとりの批評家のうちに同居することができているのだろうか、と [四一]」。長谷正人は「しかし蓮實重彦は自らの映画経験の具体的な感触を頼りにしながら、例えば七〇年代のニューシネマにおけるズームの使用は過剰なスペクタクル化として醜いとか、あるいは同じスペクタクル性を持ってはいても二〇年代のムルナウに映画が魅惑的だったとか、逆にスペクタクルなき透明で簡潔なハワード・ホークスの映画もまた素晴らしいといったように、「批評家」としての価値判断に基づいたうえで、その都度「古典的なハリウッド」という概念そのものを、その論述自体から独自の形で浮かび上がらせ、生成させようとしていたと言うべきだろう[四二]」と大らかに肯定している。

 蓮實が変節したきっかけはいつからなのだろうか。ここでは東京大学総長に就任した関係上、批評家廃業宣言をしたタイミングとしよう[四三]。一九九七~二〇〇一年まで国内において映画批評を断筆した。そして、批評家としては仮死状態に陥った蓮實は終末論者から快楽主義者へと舵を切ったわけだ。『これからどうする未来の作り方[四四]』にも「正しいこと」よりも「好きなこと」を優先しているのがみてとれる。

 ジジェクは快楽主義者をベルナルド・ベルトルッチが撮った『ドリーマーズ』The Dreamers(二〇〇四)を例に挙げて批判している[四五]ベルトルッチは『暗殺の森』Il conformista(一九七〇)の時点では暗殺対象であった大学教授をジャン=リュック・ゴダールと重ねるほどラジカルだったが、老成し、セックスとシネマという淫蕩生活に明け暮れるシネフィリーたちの生活が五月革命によって奪われてしまったことへのノスタルジーを赤裸々に撮った。『ドリーマーズ』の『はなればなれに』Bande à part(一九六四年)を模倣したルーブル美術館を俳優が駆ける場面は痛々しい。映画の素晴らしさを讃えるベルトルッチの時代錯誤ぶりは、アメリカ映画抹殺に挫折し、退廃した蓮實とよく瓜二つだ。

 さて、批評家引退後の、蓮實の言動は到底信じがたいものになってしまったことを証明しよう。クリストファー・ノーランの『ダークナイト』を「評価されるべき[四六] 」としすぐに臆面もなく「ノーランという人には演出力が全くない[四七] 」と掌を返すという暴挙にでたり、「アメリカ映画は死んでしまったなぁという気がします[四八] 」と評したジョー・ダンテの映画をいまさら評価し始める[四九] 。今では毛嫌い[五〇] しているラース・フォン・トリアーの映画も初期の『奇跡の海』Breaking the Waves(一九九六)は渋々褒めていた [五一]し、遂には落ち目になったティム・バートン[五二]ジョン・カーペンター[五三]まで評価し始め、節操がない。

 挙句の果てに、威勢よく三浦哲哉の前で「それから単純な評価の問題として「-‐現在にどこかでつながる評価の問題として、あるときまでは良かったけれど途中からどうも信頼できなくなったというひとは、やはり始めから悪かったんじゃないのっていういい方をしなければならないと思います[五四] 」などと啖呵を切っており、実に白々しい。

 

C フィルムによる芸術家 VS 映画作家

 さて、「反カイエ派」の蓮實は「作家主義で得をしたのはスコセッシだ」というゴダールの言葉をよく引用する。しかしながら、蓮實もまた作家主義者である。蓮實は「マイケル・マンか、ガス・ヴァン・サントか」といった問いを立て、「フィルムによる芸術家」か「映画作家」かという二項対立を仮構し、「映画の正当性」を掲げ、後者を激賞している[五五]。しかしながら、この価値判断の基準はカイエ派の排他主義を援用しているだけではないか。

 そう、これはあまりに果てしなく無価値なゲームだ。この図式は伊藤大輔山中貞雄でもできるし、大島渚吉田喜重黒澤明木下恵介ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーヴィム・ヴェンダースでもできる。つまり種を明かせば、プリンスとマイケル・ジャクソンマチスピカソ大江健三郎石原慎太郎のように因果のある2人の人物の名前を並べて何か深い対立、関係があるかのように暗示させているだけなのだ。映画で言えば、『ドリーマーズ』でチャップリンキートンかという会話があったように他愛ない。ちょうどそれは『フランケンシュタイン対地底怪獣』(一九六五)、『座頭市対用心棒』(一九七〇)と同じで、どちらが優れているかを妄想するそれぞれのファンがお互いに反目しあうようにするための挑発なのである。カイエ派はさまざまな過大評価を受けた映画を貶し、過小評価されてきた監督を発掘したのは価値があった。だからといって、蓮實のようにD・W・グリフィスとエリッヒ・フォン・シュトロハイム[五六]トニー・スコットリドリー・スコットクロード・シャブロルジャック・リヴェット[五七]ガス・ヴァン・サントマイケル・マンピエル・パオロ・パゾリーニセルジオ・レオーネ[五八]といった名前を並べ、対立煽りをしているだけでは不和をもたらすだけだ。それに、いつも蓮實が肩を入れているのは軽んじられがちな商業映画ばかりである。この双子的な存在の列挙では決してマイケル・スノウ、アンディ・ウォーホル、ローラ・マルヴィの名前さえ槍玉として挙がらないのだから、糖衣にくるんである劇映画至上主義のタカ派そのものある。それはもはや有効ではない。

 『ショットとは何か』(講談社、二〇二二年)の第四章で嬉々として、カノン批判をする蓮實は徹底して物語映画についてのみ語っており、言行相反甚だしい。「さらには、自分が傑作だと思う作品だけを論じていれば、映画が見えてくるはずだと思いこんでいる者さえいる始末です。しかし、問題は、傑作でも何でもないごく普通の作品の方が遥かに多く、そのごく普通のを何らかの意味でカヴァーしないかぎり、映画の理論など成立するはずもないということです[五九]」と述べておきながら、ここで紹介される映画はすべてD・W・グリフィス『ドリーの冒険』The Adventures of Dollie(一九〇八)、ジョン・フォード『静かなる男』The Quiet Man(一九五二)、ニコラス・レイ『大砂塵』Johnny Guitar(一九五四)、ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』、マックス・オフュルスたそがれの女心』Madame de...(一九五三)、ヴィンセント・ミネリ『バンド・ワゴン』The Band Wagon(一九五三)などと映画史上高く評価された傑作ばかりな上に、蓮實が同時代的に見た映画がほとんどである。だから、ヴィクター・フレミングロバート・パリッシュ福田純フィリップ・ド・ブロカ、ジョルジョ・フェローニ、ロー・ウェイのような二流の監督は欠番で、「ショット」理論はものの見事に瓦解する。この古典映画の千年王国では、『フレームの外へ[六〇]』で重要視される現代映画作家ジャン・ルーシュジャック・リヴェットカルメロ・ベーネ、フランス・ファン・デ・スタークは亡命を余儀なくされている。ドキュメンタリーの領域に至っては、ロバート・フラハティムルナウの共同監督としてのみ触れられ、フレデリック・ワイズマンロバート・クレイマーペーター・ネストラー、小川伸介、佐藤真は「ショット」の世界からは根絶やしにされており、俎上にのることもない。それに、蓮實はドゥルーズを「女性蔑視」、「男性原理主義」と痛罵するが、アリス・ギイ、トリン・T・ミンハ、ユーリア・ソーンツェワ、アンヌ=マリー・ミエヴィルについてまともに話しているところも、書いているところも見たことがない。実験映画に関してはもはやジョナス・メカスすら触れる気もないのだろう。蓮實の言う「ショット」とは経験主義にすぎない。

 それにしても、蓮實は『小説から遠く離れて』で村上龍丸谷才一井上ひさし大江健三郎の小説を「双子の物語」として批判していたが、その典型的なアーキタイプを使い倒しているのは他でもない彼自身である。双子的存在というのはキャラクターを書く際に最も安易な手法だ[六一]。「普通の映画」だろうが、「個性的な映画」であろうが、才能のないものは残らない。それこそ超凡庸な早撮り多産の渡辺邦男ないしは小川欣也に対して超個性的な量産監督マキノ雅弘あるいは若松孝二とで人気を比べたら圧倒的に後者だろう。こうした、「芸術」か「娯楽」かという古臭い議論をいまさら擦りつづけるのは無意味だ。

 ジャック・デリダの『ポジシオン』(高橋允昭訳、青土社、二〇〇〇年、六〇頁)」)にはこうある。「(⋯)古典的哲学におけるような対立においては、われわれはなんらかの差い向かいといった平和的共存にかかわりあっているのではなく、ある暴力的な位階序列づけにかかわっている(⋯⋯)。当該の二項のうち一方が他方を(価値論的に、論理的に、等々)支配し、高位を占めているのです。そういう対立を脱構築するとは、まずある一定の時点で、そうした位階序列を転倒させることです」。

 だというのに、教育者蓮實は映画美学校の生徒たちに「映画は個性的でない人によってつくられる[六二]」と教えた。そして演出においても、「最近の日本映画を見ていますと、いかにも重要そうなショットばかりが非常に目につきます。(略)このショットを撮るのに何日かかっただろうなと考えてみると、経済的に合わないことをみんな平気でやっている。なぜかというと、撮るのが下手だからです。ジョセフ・H・リュイスは撮るのがうまいから、いまのようなシーンが構想できるのです[六三]」とする。ここで『ハリウッド映画史講義』の単純さについての一説を再読しよう。「確かなことは、デヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』(83)よりも、デヴィッド・クローネンバーグの『デッドゾーン』(83)よりも、ニール・ジョーダンの『モナリザ』(86)よりも、コーエン兄弟の『バートン・フィンク』(91)よりも、ティム・バートンの『シザー・ハンズ』(90)よりも、ハル・ハートリーの『シンプル・メン』(92)よりも、『ゴダールのマリア』(83)の方が遥かに「B級映画」に近いということだ。六十二分という上映時間の短さにおいて、撮影スタッフの少なさにおいて、予算の低さにおいて、そして何よりもまず、その呆気ないほどの単純さにおいて。『マリア』から『ゴダールリア王』(87)を通過して『ドイツ零年』(91)にいたるまで、ゴダールは一貫して「B級」の単純きわまりない鈍い輝きのまわりを旋回している[六四]」。そうか、「B級映画」こそ裸形の映画そのものなのだな、これからの映画というのは「単純さ」を戦略とすればよいわけだ。

 筆者は蓮實の影響下で撮られた映画にははっきり言って飽き飽きしている。まるで、映画芸術に正しい答えがあって、頑張って模範解答を出さなければいけないかのように必死な受験生を見ているような気分に陥るからだ。映画が第二言語だとすると、蓮實一派が行った名作映画を見せるという態度は言ってしまえば、答えを解説するだけの塾講師だ。そういえば、『フランス語の余白に』(朝日出版社、一九八九年)はテキストの写経を推奨する本だったのを思い出す。いわば、その門下生たちは蓮實重彦という絶対から逃れられず、その支配下で相対性を競っているだけなのである。まさにエディプスだ。この期待しない時代に絶対的な映画作家の誕生を待ち遠しく思うのは私だけではないことを祈りたい。

 

 

 

[一]『大江健三郎論』(青土社、一九八〇年)

[二] 蓮實重彦ジョン・フォード論』(文藝春秋、二〇二二年)。フォードを解放したいならばむしろ政治的な作品について論じ、フォードの署名を発見することが批評家の務めだ。

[三]フリッツ・ラング、または円環の悲劇」『映像の詩学』(ちくま学芸文庫、二〇〇二年) (初出:「ユリイカ 映画の美学‐ゴダールから溝口健二へ」一九七六年八月号)

[四] 蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール筑摩書房、一九九〇年(初出『文学とアメリカ』南雲堂、一九八〇年)

[五] 前掲『ジョン・フォード論』

[六] アーロン・ジェロー「映画の批評的な受容」藤木秀朗編『観客へのアプローチ』(森話社、二〇一一年)所載

[七] 「フォードの「うまさ」とは何か」『文學界』(二〇二二年九月号)一五八頁

[八] 『映画とは何か: 映画学講義』(二〇〇一年、みすず書房

[九] 「なぜ人間は偶然の一致に意味を見いだそうとするのか」『「バカ」の研究』Psychologie de la Connerie, Sciences Humaines,2018(田中裕子訳、亜紀書房、二〇二〇年)一一九~一二〇頁

[一〇]ダニエル・シュミット 思考する猫』Daniel Schmid │ Le chat qui pense,2010

[一一] 蓮實重彦『監督 小津安二郎』の批評的事件」工藤康子編『論集 蓮實重彦羽鳥書店、二〇一六年、三八〇頁 

[一二] 同前、二四頁

[一三] 同前、二四頁

[一四]文學界』二〇二二年、九月号

[一五] 同前、一九六頁

[一六] 日本経済新聞、夕刊、二〇二二年八月九日

[一七] 前掲『ハリウッド映画史講義』二三三頁

[一八] こと映画論となると、『光をめぐって』、『映画はいかにして死ぬか』、『映画崩壊前夜』、『映画狂人』、『映画巡礼』と宗教色の強いタイトルをつけるあたり、敬虔なシネフィルぶりが吐露されている。

[一九] そのうえ、ここで取り上げた作家については『スモーク』Smoke(一九九五)を撮ったワンは早々に見限り、ニルソンに至っては音沙汰もなく、イーストウッドについては「聖痕」(『ブラッド・ワーク』パンフレット、二〇〇二年)だの、「煉獄」(「「運び屋」作品論 「煉獄」のかなたに」 所載『キネマ旬報』二〇一九年三月下旬映画業界決算特別号)と聖人と結びつけて論を展開している。余談だが、カイエの父とも呼べる編集長アンドレ・バザンカトリック教徒であり、その弟子ともいえるロメールとシャブロルが共同執筆した『ヒッチコック』Hitchcock, d'Aujourd'hui, 1957(木村建哉・小河原あや訳、インスクリプト、二〇一五年)はヒッチコック映画の形式からカトリック性を分析している。どうにも耶蘇くさい。

[二〇] 蓮實重彦『映画狂人、神出鬼没』(河出書房出版、二〇〇〇年)(初出: 『東京大学公開講座57・性差と文化』東京大学出版、一九九三年) 

[二一] Reinventing Hollywood: How 1940s Filmmakers Changed Movie Storytelling, Univ of Chicago Pr,2017

[二二] 同前、一九八~一九九頁

[二三]同前、五六~六六頁

[二四] 前掲『ハリウッド映画史講義』二〇〇頁

[二五] 『湖中の女』The Lady In The Lake(一九四七)『潜行者』Dark Passage(一九四七)、『暗い過去』The Dark Past (一九四八)、『らせん階段』The Spiral Staircase (一九四六)、『プラム殿』H. M. Pulham, Esq.(一九四一)ほか。

[二六] 特に『らせん階段』は蓮實のミステリー映画・犯罪映画のベストテンのうちの一つである。『映画となると話はどこからでも始まる』(勁文社、一九八五年)

[二七] 前掲『ハリウッド映画史講義』一九七頁

[二八] 「21世紀の映画論」前掲『映画論講義』三二五頁(初出: 第十六回国民文化祭・ぐんま2001シンポジウム「映像の時代」高崎シティギャラリー・コアホール)

[二九] 同前、三二十九頁

[三〇]第2回「映画における演出」『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』青土社、二〇二〇年(初出: 2002年11月24日(日)、せんだいメディアテークにて)百三十三頁

[三一] 前掲、二一頁

[三二]「間違っていても面白ければ良いじゃないか」という子供じみた反論は控えていただきたい。

[三三]曾根中生の『わたしのSEX白書・絶頂度』」蓮實重彦『シネマの記憶装置 新装版』(フィルムアート社、二〇一八年)(初出:「シネアルバム、一九七七年、十月号」

[三四]蓮實重彦「100年目の憂鬱」(聞き手=関口良一)『帰ってきた映画狂人』河出書房新社、二〇〇一年、一六四頁(初出:『シネティック』第2号、洋々社、一九九五年)

[三五] 『映画覚書 Vol.1』文藝春秋、二〇〇四年、四三一頁(初出:『文學界』二〇〇四年、一月号)

[三六] 「ときにはイギリスと口にしてみるのも映画的環境の活性化には有意義である。」『シネマの煽動装置』(話の特集、一九八五年)八二頁(初出:『話の特集』一九七一年、七月号)

[三七] ブログだが、蓮實がソクーロフと北野の評価を捏造を簡潔に指摘しているので参考までに。ししらいぞう「蓮實重彦の捏造癖?ーー蓮實重彦『映画崩壊前夜』」http://bataaji.blog53.fc2.com/blog-entry-474.html

[三八] 「「すべての映画はアメリカ映画だ」(ゴダール)とは間違っても言えなくなってしまったハリウッド映画の惨状を前にして、人は、来るべき世紀に向けて、映画への「期待」をどのように組織すればいいのか」前掲『映画狂人日記』(河出書房新社、二〇〇〇年)二一頁

[三九]前掲『映画覚書 Vol.1』、四一三頁

[四〇] 同前、四五七頁

[四一] 「シネマとアメリカ」工藤康子編『論集 蓮實重彦』(二〇一六年、羽鳥書店)五一八頁

[四二]蓮實重彦」『映画論の冒険者たち』(東京大学出版、二〇二一年)一二八頁

[四三]朝日新聞、一九九七年二月八日朝刊、三頁

[四四] 『これからどうする未来の作り方』(岩波書店、二〇一三年)

[四五]ポストモダン共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』First as Tragedy, then as Farce, Verso, 2009(ちくま新書、二〇一〇年)一〇二~一〇三頁

[四六]「散文生成の「「昨日性」に向かいあうことなく、小説など論じられるはずもない」蓮實重彦『随想』(新潮社、二〇一〇年)初出『新潮』二〇〇九年、八月号 

[四七]

[四八]「横断的映画史の試み」、蓮實重彦『映画はいかにして死ぬか[新装版]』フィルムアート社、二〇一八年

[四九] ジョー・ダンテは一九九八年ロカルノ映画祭で監督の名誉豹賞を手にした。蓮實はそれ以後「この馬鹿馬鹿しい笑いが生々しいアメリカ批判となってしまう ジョー・ダンテルーニー・テューンズ バック・イン・アクション』」(『映画崩壊前夜』(青土社、二〇〇八年)初出『インビテーション』二〇〇三年、七月号)とあたかも彼の作品を『スモール・ソルジャース』Small Soldiers(一九九八年)から親しんできたかのように論じている。「「映画時評」をこえて」蓮實重彦『映画時評』(講談社、二〇一五年)三二一頁(初出:『文學界』二〇一五年、五月号)

[五〇] 前掲『映画長話』四二頁

[五一] 「」『映画狂人日記

[五二] 「「作家主義」にさからってティム・バートンを擁護することの困難」前掲『映画崩壊前夜』(初出:『批評空間』第Ⅲ期第一号、二〇〇一年、一〇月号」)

[五三] 「この監督の演出の繊細さは、ことによると二十一世紀にはすぎた贅沢かもしれない-‐ジョン・カーペンター監督『ザ・ウォード/監禁病棟』‐‐」 蓮實重彥『映画時評2009―2011』講談社、二〇一二年 初出「群像」二〇一一年 十一月号

[五四] 「リアルタイム批評のすすめ」初出FLOWERWILDウェブサイト(http://flowerwild.net/)/08/Nob/2006,4/Dec/2006,08/Jan/2007/インタビュアー 

蓮實重彦インタビュー リアルタイム批評のすすめ 蓮實重彦『映画論講義』東京大学出版会、二〇〇八年、三九一頁

[五五] 前掲『映画論講義』三八九~三九〇頁

[五六]「映画は個性的でない人によってつくられる」 http://eigabigakkou.com/prospective/exclusive/shigehikohasumi/ (

二〇〇六年四月一日「映画表現論」の講義より)

[五七] 蓮實重彦『映画長話』(リトルモア、二〇一一年)十八頁

[五八] 前掲『映画論講義』三九〇頁

[五九] 前掲『ショットとは何か』一六〇頁

[六〇] 『フレームの外へ──現代映画のメディア批判』(森話社、二〇一九年)

[六一]川端康成は連載に難儀して『古都』のように双子的な人物が登場する小説を幾つか書いている。参照。小谷野敦川端康成伝 双面の人』(二〇一三年、中央公論新社

[六二] 前掲 http://eigabigakkou.com/prospective/exclusive/shigehikohasumi/

[六三] 前掲『映画論講義』三六〇頁(初出:「映画表現論」講義、二〇〇二年一〇月、映画美学校

[六四] 前掲『ハリウッド映画史講義』一五五~一五六頁