映画評『スウィングガールズ』(2004)

 川原で水浴びをしながらルーズソックスを振りまわし、はしゃぐ少女たちのワンショットは途方もない。あれはフォードやルノワールより上だ。

 安易に美しいと耽美に浸る余韻をも残さぬ、粋な充実ぶりを『スウィングガールズ』は抱いている。

 楽器の使い方どころか持ち方すら知らぬ少女たちが、思い思いに振り回し、シャボン玉まで吹いてしまうことの可笑しさというのは、理屈を超えた奇形性を帯びた運動が見えることによって起きるズレである。

 矢口史靖という人はズレた人間にしか興味がないのか、『ダンスウィズミー』の宝田明のような置いていかれた人間しか描かない。

 上野樹里は何故だか知らないが、テープを出し忘れたことによって、仲間から阻害される。しかし、眼鏡をかけた本仮屋ユイカトロンボーンを吹き始めると、ジャムセッションが始まる。上野はすぐさまサックスを手に取り音楽を奏でだす。

 このシークエンスに思わず涙をしてしまったのだ。遅れてきてしまったものを肯定する儀式がここで速やかに遂行されたからである。

 映画は限りなくスローメディアであるのは当然で、誰しもが遅刻魔であることを強いられる。『トラック野郎』だろうと定刻通りに何かを運ぶはずもなく、いつもギリギリで爆走する。

 コンサートにようやく辿り着いた彼女らが、雪を浴びてキラキラとした滴を纏うための逆算の為にわざわざズラしたのだし、竹中直人の指揮が遅れるのも当然その為だ。

 彼女たちの間で共有された同じ方角を見る事は、始まりと終わりの路面電車の記念撮影で反復されるだろう。

 それに、フィルムのノリもノッている。ジャージの赤の出具合、緑色の芝生、野球場のアンバーめの逆光、どれも素晴らしい。