映画評『殺しの烙印』(1967)

 燃えるトランプ、刺しっぱなしの鍵、浮かびあがるナポレオンの瓶、切り裂かれる写真、真理アンヌ、小川万里子の左眼、といった不可解なクロースアップが、ショットのリズムを刻んでおり、画面の連なりの感覚をズラしている。

 律儀な物語作家であれば、猿島のトーチカ痕を放火するショットは、

1.宍戸錠が灯油缶を投げ入れて撃つ

2.燃え上がる灯油缶

3.驚愕するNo.2の殺し屋

4.燃え上がる建物を背に逃げる宍戸

 と撮ってしまうであろう所を、

1.宍戸錠が灯油缶を投げ入れ撃つ

2.燃え上がる建物から飛び出すNo.2

 と、映像の連続性よりも、ぶつ切りの活劇を示しているのだ。ここでは燃え上がる事の始まりと終わりがない。中身が剥き出しになっている。物語なんぞ知らんぞという無頓着さが清々しい。

 こんな単純な事であんな禍々しい画面が生まれるのかというのが摩訶不思議だが、異形の作家は誰しもがこの意味空白のショットでリズムを作っているのだ。清順は何故ここまで奇形じみた印象を受けるのか。

 それはカット毎に立ちあがる空間による目眩しである。狙撃用スコープを塞いだチョウ、真理アンヌが纏う水しぶき、宍戸を惑わせる映写機、銃撃戦を阻害する遮蔽物、トンネル、ジム、暗闇、檻といったイメージの数々が見る事を妨害する。

 小川万里子の邸宅をあえて書割りのように真正面からしか撮っていなかったのを、突如真横から撮り始める奇怪さときたら!

 視界良好の空間にも関わらず、ふとした瞬間にライフルの銃口が現れ形勢を逆転してしまう『野獣の青春』、明るいスケートリンクだというのに和田浩治のクロースアップだらけの『無鉄砲大将』といった視界不良の変奏が、『殺しの烙印』の銃撃には幾つも見られるだろう。

 何せ、宍戸がNo. 1の殺し屋の位置を探る為に行った策は、窓を覆っていた幕を白昼堂々取り払う事によって行われていたのだ。

 また、所謂成人指定となっている映画ではあるものの、『烙印』で行われるのは、性戯ではなく体位のバリエーションにすぎない。まともに性交を描けば、真横か俯瞰からしか描けないという不自由さから逃げんと、螺旋階段やバスルームで身体をオブジェとして提示してみせる。私が見たいのはソフトコアポルノではなく、シネマであり、アートだ。

 真理アンヌがガラス張りの床に押しつけられ乳房を延ばされる姿は、フランシス・ベーコンの絵画よりも身体の奇形性を露わにしていよう。彼女の脚の毛もまた素晴らしい。

 湖のレストランに逃げた宍戸が出て行く時に、恥じらった面持ちで椅子に体育座りをしながら下着を垣間見せていた女性たちの姿もまた型である。

 最も奇妙な脚の体位で有名な『陽炎座』でもまたこの制度からの逃亡劇を清順は試みるであろう。