映画評『ベレジーナ』

映画評『ベレジーナ』(1999)

 秘密結社コブラが、椅子で眠りこけるイェレーナ・パノーヴァの前に集う。意識を取り戻した彼女は顔をこちらへ向ける。切り返しで顔だけを向けて振り返るという『ヘカテ』のローレン・ハットンが初登場と結びのシークエンスで見せたミザンセヌを反復している。

 この仕草は実に際立っている。立っている人物と座っている人物の視線の交錯を構図=逆構図の内側からカットバックで描く。シュミットの切り返しはほとんどエルンスト・ルビッチアルフレッド・ヒッチコックでも見ているかのように洗練されている。

 高度なのが、ワンキャメであるから動きをシンクロさせて繋げる必要がある切り返しを何度か使っている。美術館の異邦人の女中と魔法瓶を手渡すシーンやリキュールをカット越しに交わし、親密さを深める。『北北西』、『めまい』のヒッチコックが試みていた技法だ。

 思わずルビッチの名が出たのは艶笑喜劇だからではない。扇を持ったマリーナ・コンファローンとウルリッヒ・ネーテンが同じベンチに座ったかと思いきや、男が立ち上がってフレームアウトし振り返って喋り、カットを跨ぐと女が既に立っていて話す切り返しが、『ウィンダミア夫人』さながらだからである。

  また、イェレーナ・パノーヴァが靴を落として画家の男を誘惑する場面は、『裸足の伯爵夫人』である。このシーンの優れているのは、女が健康的な脚を伸ばしてハイヒールを落とすやいなや、すぐに切り返し男が飛びつくという即物的な速さである、全編を通じてこの映画は速い。

 『裸足の伯爵夫人』ではハンフリー・ボガートが重そうなハイヒールをコトンと重力のまま落とす。それは恐らくエヴァ・ガードナーが靴を脱いでいる=服を脱いだという性的な描写をワンクッション置いて表象しているのだろう。

 『ヘカテ』よりも顕著なのが舞台の平面性である。セットのどんでん返しが極力排除されており、恐らくそれが切り返しの印象を強めているのだろう。ロケセットとなっている建造物のシーンもそうした撮影機の制約が映画の文体を構築するのを手伝っている。

 だから、あの花火の合成のショットやそびえる山脈を眺める公衆電話という荒唐無稽な画面がある種調和の域に達している。

 この映画を見ていていわゆる空間認識を狂わせるようなショットというのは、パノーヴァが目隠しをして男に股ぐらを見せる場面の切り返しで、引きの画面でこの性戯を見せず、危うげな女から発情する男へ、そしてスカートの中からその表情を映す箇所だろう。ただし、2回目は普通に引きで示される。

 他に、女が将軍の前で寝転び「結婚して!」という場面も引きの絵で『散りゆく花』のように視線が示されることはない。

 説話論的に言えば、性愛の場面がすべて突如鳴る着信音によって遮られ、中断されるのが琴線をくすぐる。コブラ団のメンバーたちもそれぞれの余生を過ごしている時、不意に告げられた暗号から任務遂行を目指す。これは主人公が一切能動的に動かない完璧な巻き込まれ型のコメディだ。

 『ベレジーナ』は古典的であるという儚さを抱えている。この作品こそが最後にして最良のハリウッド映画なのかもしれない。