エッセイ「TOKYO FILMeX 2018」

エッセイ「TOKYO FILMeX 2018」(感想は当時のもの)

 2018年のフィルメックスにおいて、いくつかの作品を見たなかでそれぞれの作品に共通する主題があるように思えてならなかった。それは境界をこえることである。

 『自由行』は中国大陸から香港に住まわざるをえなくなった主人公の女性監督が台湾を訪れるというのはそのものといっていい。演出においても、家族を乗せたタクシーと母親のいる観光バスがべつべつの道を進んでいくシーンや主人公が政府を煽るようなことをすると言ったときにベランダにいた夫が離れていってしまう場面は境界に線を引いている。終りの方で主人公が「わたしは異邦人です」というのも、イン・リャン監督の実人生が織りこまれていてなんとも感慨深い。

 また、『幻土』はそもそも現実か幻想か判別がつかない世界での出来事だ。過酷な労働現場、逃げられないようにパスポートを取られてしまうといった管理社会的な恐怖と、すみわたった海がしだいに埋めたてられていく退廃が、ディストピア的に現代を切り取る。また、ネットカフェの女性店員が水槽のガラスを通して現れたり、インターネットの向こう側で何が起こっているかもわからないところも含めて、かつての『ブレードランナー』のようにフィルムノワールとサイエンスフィクションを混ぜ合わせた妖しさがたまらない。そもそも、刑事が不眠症の予知夢を見る男というのも『マイノリティリポート』と似ている。そうした物語的な点のみならず、紫や橙色といった人工的な光や、雨が降りしきる工場、闇をきりさいて走る車といった画面の細部で勝負をしている。このヨー・シュウホア監督はこれからの作家といっていいだろう。

 これらの作品には悪徳企業の経営主や中国警察のような権力が、主人公によって討ち倒されるといった解決はいっさいない。そういえば、アメリカ映画の『コマンド―』のポスターが『自由行』の映画内映画で貼られていたように、それは現実のどうしようもなさと地続きである。また、アモス・ギタイが『ガサへの手紙』において怒れる民衆が軍隊に石を投げるようすを、ダビデゴリアテになぞらえていたことからもこの傾向はうかがえる。娼婦や楽師、ラビ、観光客、カップルといった多種多様な人々を乗せた『エルサレムを走る路面電車』がみせていたのも物語でなく、断片だ。彼彼女らが歌ったり、涙をこらえて窓の外眺めることがひたすら生きることを肯定している。マチュー・アルマリック演じる観光客が右翼の夫婦に話しかけてしまうところは可笑しい場面もあるかと思えば、警備員がパレスチナ人に嫌がらせをするぎょっとするような場面もあって一筋縄ではいかないまさしく現代映画だ。ここにもまた電車の扉が閉まり、出征する軍人とその恋人との間にできた亀裂が描写されていることも重要なモチーフである。

 そうしたアジア中の監督が「越境」を知らぬうちに作っているなか、とりわけ印象深かったのが篠崎誠の『共想』だ。本編76分のフィルムのなかに全167カット、平均27秒とどちらかというと遅い持続も、ここでは端正かつ丁寧にワンカットワンカットが作られた証となっている。例えば珠子と善美が校舎や団地を歩く中、窓と窓とで仕切られた画面が幾度となく繰り返され、この2人の間に作られた境界をまさしく映画的に垣間見ることができる。多重露出で2人が重なり合うところは『間違えられた男』か、あちらのテーマも分身や二重性であった。けれども、この作品は残酷に突き放すのではなく、2人の関係は美術展や教会、最後には丘から景色を見つめることによって次第に治っていく。このどこか抽象的な面持ちをした彼女たちが目に涙を浮かべるところには思わずこちらまで涙してしまう。演劇や2人の人物の顔を互い違いに並べて構図をつくるというのはベルイマンが『ペルソナ』や『第七の封印』で用いたテクニックで、ここでの篠崎誠はそれよりもはるかに慎ましく、それでいて心にうったえかけてくる。

 ある一定のクオリティの上をいった丁寧に作られた名匠監督の作品から新人の作った野心品が並ぶという独自性が高い映画祭になっている。来年はまたどのような映画が並んでいるか楽しみでしょうがない。