映画評『めまい』(1958)

 むやみに近づいてはいけない。遠くのほうにいるキム・ノヴァクへの接近は決して許されないのだ。だが、その距離の計測をむきだしとなった肉体と肉体とが接吻と抱擁によって絡みついて無効にしてはいながら、その叙情的かつ官能的な余韻までもがあえて中絶されてしまう。

 ジェームズ・スチュワートは離れた距離から彼女を見つめるから視線劇が繰り広げられるのかと思いきや、渦状に結んだ金髪にばかり気を取られてしまい、切り返しの連続性は反故され、一方的に無防備な対象への窃視が行われる。キム・ノヴァクの表情がわかる大写しは一目惚れをしてしまう料亭の場面を除いては自粛されており、専ら遠目から捉えた灰色の背中として印象に残る。

 その女が不意にサンフランシスコ湾へと飛びこむ。男は帽子を放り捨ててから後を追って海を泳ぎ、浮いた女を救いだす。

 この時にキム・ノヴァクとの第一の接触が行われる。その時、連続しない絵から現れた女と同一のフレームで初めて収まり、手まで触れてしまうのだから、映画の原理を揺るがしかねない事態が起きてしまう。

 その女が寝台に運ばれ、暖炉で取り留めもないやり取りを積み重ねていく、名場面へと繋がるわけだが、ここでは接触が回避されるのだ。介抱したばかりの女と行為に及ぶわけがないという話は辞めよう。事実、スチュワートは電話が鳴らなければノヴァクの手を握ったままに、いつ貪るように唇で吸いついてもおかしくないのだ。それをさも脚本上のご都合主義によって中断してしまうせいで、画面に施された意匠を消しさってしまう。

 だから、ここでは飲み物はたんなる運動のきっかけにしかならない。『めまい』にはハイボールを作る場面が幾度となく反復されるが、そのどれもが単に口へ運んで飲むことよりかは、男が女に、あるいは女が男に近づく口実に用いられるばかりである(飲んだとしても尻切れ気味に編集で落とされる)。

 その接触の中断はノヴァクばかりに起きる現象ではなく、バーバラ・ベル・ゲデスという眼鏡をかけた醜女を演じる俳優の間でもゆっくりと奏でられている。旧知の仲であるが故に、最新式の下着を一緒に見つめたとして、色めきたってこない残酷なまでに不毛な営みが行われた後、スチュワートが梯子段からがくりと落ちたのをきっかけに、ぎゅっと抱き寄せる場面がある。ともすれば感傷的にも心理的にもなりうる場面はあっけらからんと暗転させてしまい、ここでもまた接触の主題を演じ損なっているのだ。この彼女とのやり取りは、精神病院の部屋を最後とした別れのさい、スチュワートが会話の対象ではなく単なる後頭部として示されたように、もはや2度と会うことはないだろうと、部屋から廊下を出るまでをアクション繋ぎによって持続させて緩慢に表現している。ゲデスとスチュワートが離れる場面がどれだけ反復されているかを数えるのも一興かもしれない。

 繋ぎといえば、『めまい』では引きの場面から寄りの世界へと移行する際に、決まって説話上機能した小道具を手に取ったり、後景を通行人が歩いて流暢に画面を進行させる。2度ほど現れる新聞紙でさえ女と会えることにそわそわとしたスチュワートは読みもしないのだから事態は実にさりげなく露呈している。運動の連続した最中が破壊されてしまうからこそ中断は成立するのであって、単に編集を顕示するばかりでは画面は生起しない。

 破壊的なまでに著しくリズムの感覚を損なったカットが挿入されるのは、あくまでもスペクタクルなシークエンスに留まり、冒頭の屋上を駆ける追跡劇の荒々しいカッティングはあきらかに弛緩した印象を受ける。その失調は目の前でノヴァクを失った後の裁判でまったく予想のつかない立席者たちのバストショットの数々が、拡散した意識かのように散りばめられていることからも想起できよう。

 では、これが正確に2度反復される鐘楼を登る場面となるとどうなるか。まず最初は、スチュワートはノヴァクを追うわけだから、見た目ショットによって、またしても接近が禁じられ、かつあのズームインしながらアウトする高低差=距離を表象するめまいショットからして、ぶつ切りにされていることは誰の目から見ても明らかだろう。

 しかし、これがスチュワートがノヴァクを連れて登るとなると余計なショットはなく、一致した運動が流れていく。それがふたたび失調に陥るのは不意に現れた尼によって起きる女の喪失によって終わらない運動へと永劫回帰する。そのむきだしの肉体と肉体とが絡みつく抱擁と接吻とがどれだけ中断されていくかの変奏に身を委ね続けるのが映画なのだ。