映画評『ハイシエラ』(1941)

映画評『ハイシエラ』(1941)

 よれたスカートから細い脚を投げ出しながら、悪戯げに棒切れを弄んでいる女がいる。彼女はこちらに気がつくと、ふと愛くるしい瞳をむけてくる。

 その如何にも悪女というような縦に筋が通った面立ちに負けないこってりとした唇は、あのアイダ・ルピノに他ならないのであり、彼女を見てしまったボガードはおもむろに茂みから葉っぱをちぎり、弄ってしまうだろう。

 『死の砂塵』評のリメイクになってしまうが、おぼこのジョーン・レスリーが脚が悪いのを放ってはおけずに、ボギーがつい惚れてしまうという展開を前にして、結局のところ「無造作な脚」と愚かにも呟いてしまう。彼女の脚は別段美しくもなんともないのに、その惑いにのせられてしまうのがウォルシュなのだ。

 実際、ウォルシュの画面は豊かだが、それだけではなく、音声にまつわる映画でもある。不吉の予兆として反復される犬に代表されるように、オフの空間から破滅が呼び寄せられる。

 犬の鳴き声、強盗の際のマダムの悲鳴、警官の無線、ボギーが子分を脅す際のテーブルを叩く音、裏切り者のホテルマンがトランプをシャッ!と弄る音、クラクション、ラジオ、山をこだまする呼びかけといった画面外から響き渡るサウンドが、登場人物たちを恐怖させる。まるで、トーキーに抗う映画そのものではないか。