映画評『熱波』(2012)

映画評『熱波』(2012)

『熱波』第一部冒頭、撮り方がスタンダードのフレーミングが弱く、横移動のショットが虚しい。切り返しにおいては最悪で、幽霊の女のアメリカンショットも絵としては死んでいるし、クロースアップに至っては圧延され横に潰れた顔にはってしまっている。

 現代劇になるとストローブ=ユイレ的な撮り方になる。使用人がアイロンをかけていると電話が鳴り、フレームアウトして応じる。画面にはアイロンの蒸気が燻る空舞台の画面が残る。

 また、アトリエを訪ねると狭い部屋で画家の女性の話を、フレームの外で一部の語り手の女が座って聞いていると、部屋の隅にいる絵を描いている女性が呼びかけると、そのままフレームを横切る。というような撮り方は間違いなく、『シチリア』、『階級関係』に影響を受けている。

 アウロラが隣人の女の家にあがると、「あの絵はなに?」と聞く。女は壁から抽象画を外して部屋を横切る。使用人と幾つか台所で話すと、凡庸な風景画を掛け直す。このシーンのミザンセヌにおいてが、部屋を横切る導線は説明にすぎないのではないか。

 ただ、このシーンには違和感を覚えた。もし、このショットをストローブ=ユイレ的に撮るとしたら、恐らく、極度のクロースアップで絵画を撮り、それが置かれた後も会話が被さったあと、席についたショットが撮るのを2回同じ構図から反復するのではないか。

 この映画で登場する主人公たちは洞窟、バス、劇場といった一方向を見る小津=ヒッチコックスピルバーグ的な空間にいるにも関わらず、正面を見ずにわざと咳き込んだり、寝たりとまるで何かを見ようとしない。こうした映画そのものへの不審、見ることの否定あるいは関係性の不和を描いているのだろうが。理屈っぽく俳優の芝居も誇張されわかりやすく、撮り方もあまり良くない。

 それでもこの映画はかなり緊張を強いる細部と向き合った映画であり、熱意を欠いていないので、真剣に見ることができる。植物園の霧がかかったロングショットもいい。下手したらタル・ベーラになるが。

 第二部は残念ながら期待はずれである。第一部の欠陥がすべて露呈している。撮影は広角レンズ過多で風景に関してもアフリカの光が宿っていない。風も味方をしていない。そうしたことに時間を費やす予算がなかったのだと推察される。

 そして、幾つかある切り返しも弱い。狩りの場面でアウロラが銃を撃っても切り返さない。凡庸なカッティングを否定している点は評価できるが。

 他にも、寄り添うカップルがこちらに顔を向けるショットが少なくとも2回あったが、その時にカットバックを入れてしまうのもおかしい。

 例を挙げるとすると。館を訪ねてきた男たちが彼らを探しているカットの後に、レースに包まれたベッドの上で息を呑んで2人はフレームの外へ視線を向けているアングルに切り替わる。これは因果関係を説明して止まった絵に繋ぐと言うまずい撮り方である。古典を通過した現代的な映画ならば彼ら2人の身振りのみでそうした画面を作るべきであろう。つまりは、アッバス・キアロスタミの『シーリーン』Shirinのようにだ。

 また、駆け落ちした2人が焚き火のチラつく光に照らされながらレンズの軸を見つめるショットの次に、炎のアップを撮ってしまった時は失望してしまった。この後の銃撃の場面も説明的すぎる。

 この『タブウ』は現代映画としては非常に見応えのあるもので技法や文法について考えさせられる作品だった。