映画評『火口のふたり』

 アヴァンタイトルの3カットで紛れもない傑作であると察する。

 1.荒涼とした河川敷で釣糸を垂らそうとする柄本佑。鉄橋の上を走る列車が見えるくらいの上からのロングショット

 2.糸を垂らしたドウサに、アクション繋ぎでカメラは柄本佑の横に移動。小津的な構図かビスタで再現される。

 3.着信音が鳴り、柄本佑が携帯を手に取るドウサでアクション繋ぎで、正面からのバストショットに。柄本明のボッーとした声が響き、瀧内公美が結婚する旨を伝え、帰省を促す。

 この3カットだ、映画はたった数カットで決まる。まず、今時アクション繋ぎを使う時点で反時代的な演出がなされていることはわかるだろう。

 それと問題なのは柄本明の声のみが携帯電話から響いたことだ。多くの映画であれば電話する者=される者が示されるのに対して、ここで荒井晴彦はオフからの音声を強調している。

 オンの空間を作り込むことは絵画にでも写真にでもできる。だが、荒井晴彦は映画を選んだわけだから音声をも切り取る。

 これは祭りの時に、滝内公美と柄本佑がボソボソと呟いている場面に集約するように、視線の合わない男女の声がボッーと響くというのは神代辰巳からの間=フィルム性なのである。

 とりわけ、滝内公美と柄本佑がラーメンと坦々麺をカウンターで食う時に、オフから湯切りの音が細やかに聴こえる様子にはうっとりとしてしまった。

 本作の良さというのは「今日だけ昔に戻ろう!」と滝内公美と視線があってしまう瞬間にあって、それが極めてうつくしい。

 彼女は視線を合わせようとしない柄本佑を、新築の家、家電量販店、テレビ、ラーメン屋、風呂場、ベッド(『晩春』的)、バス、風力発電機、机の上のポスターに向かって、同じ方向に瞳を投げかけようと誘う。

 ソファの横をバンバン叩き、「ここにいてよ!」と叫ぶ場面の悲痛さがあるのはそうした集積と呼応しているからだ。

 彼女のあからさまでない色気に満ちた佇まいで、砂浜にモジモジと足を動かして憤る姿に惚れないものはいまい。

 


 この映画がまた面白いのは徹底したドウサの凝りようにもあって、瀧内が柄本佑の布団を畳み、彼の読んでいた本を勝手に読む場面からも明らかなように、お互いを気遣いあっていることがわかる。

 


 柄本佑が事後にパンツを渡してやったり、ソーセージ入りのパスタのトングを殆ど奪い合うように喋るといったスリリングな場面の数々は見逃してしまってはいけない。