映画評『ラ・ポワントクールト』

映画評『ラ・ポワントクールト』

 アニエス・ヴァルダの『ラ・ポワントクールト』は極めて生々しい。
 それは、ポワントクルートという漁村がほとんど抽象的に誇張された不自然さによって逆説的に高まるリアリズムが溢れているからである。
 何しろ、登場人物たちは主人公の2人を含めて大女や子供たち、楽士に、警官たちは皆どこか頭身のおかしい素っ頓狂ないでたちをしているし、動物たちも自然に写ったのではなく抑制されたような動きをしているのだ。
 フィリップ・ノワレとシルヴィア・モンフォールがお互いに語り合う時に、人形のように動きながら視線が合わせようとしなかった2人の正面を向いた顔と真横を向いた顔が合わさってフランシス・ベーコンのような奇形じみた肖像はその最たるものだろう。
 それは細かい美術といえばいいのだろうか、通りを白い布がたなびいている様子というのも、どこか作られた演出に見える。
 こうした片田舎の漁村で揃いも揃って綺麗なシーツを使っているのはどうもおかしい。
 その異化された被写体にもまして、画面の作りというのも実にレンズを広角にして奥へ奥へと延びていく空間が奇異に映る。それが固定ショットの連続ではなく、ぐんぐんと動くキャメラワークの感覚には呑まれてしまう。
 確かに、フェリーニヴィスコンティを思わせるような息遣いはあろう。ただ、個人的に影響関係にあるのではないかと思うのはF・W・ムルナウの『サンライズ』である。
 かの作品は本作同様都会の女と田舎の男が対比として描かれており、もちろん世界で日が昇ることと同じくらいありふれた物語だと字幕で示されてはいるものの、やはり気になってしまう。
 例えば、葦の原で愛を語りながら寝転ぶフィリップ・ノワレの傍らにいるシルヴィア・モンフォールを写した画面、独りでに動き出す不思議な列車、行き交う舟のまさに運動が氾濫している様子の虚構性がサイレント映画の豊かさに接近しているように見えてしまうからだ。
 ラストに2人がパリに戻る描写があれば、大都会が現れていたに違いない。
 ヴァルダがのちに撮った『ジャック・ドゥミの少年期』の時間や空間を飛躍したり、引用されているコスチュームプレイの派手さにもまして、この処女作には凄みがある。
 ヌーヴェル・ヴァーグという映画的事件を通り越して、1人の映画作家アニエス・ヴァルダが誕生したことを告げる重要な作品にもかかわらず、日本での公開が希少であったというのは首を傾げざるをえない。
 同時代、ゴダールトリュフォールイ・マル、ヴァティムといった作家が犯罪映画に焦がれて女優たちを華々しく描くことに腐心していたことを考えると、このあくまでも自然体な男女の姿というのも斬新だ。