映画評 増村保造の映画

『やくざ絶唱』(1970)

いかにもアウトローな腕の振り方で歩く勝新太郎の姿を見てスター映画なのかなと思ったら、途中から太地貴和子へとドラマが移る。脚本の作りから言っても彼女の芝居が高揚していくとともに勝新太郎が退場をよぎなくされていく。通常のやくざ映画に感情移入をして見るものにとっては居心地の悪い構成だ。大谷直子は時代に乗り遅れた年増として描かれ痛々しく、通常のドラマツルギーからすればかなり異質だ。 
 極めて奇妙なのが『女体』との共鳴であってモチーフが裏返しで使われている。『女体』の岡田英次は唯一の肉親の妹のために自らを犠牲にし理事長の家に婿入りし、『やくざ絶唱』の勝新太郎は義理の妹を育てようと犯罪組織に入って汚れた金を稼いだわけだ。そして幕切れは風呂場で血の海に溺れて死ぬクロースアップというわけでまったく同じ終わりかたなのだ。むろん、どちらも脚本が池田一朗増村保造でかつ同時期の作品だから当然似たような話になってもおかしくはない。が、実に奇妙に感じる。
 カッティングという面では増村保造らしさというものが消えてかなり没個性的な繋ぎに移行していると思われ、恐らくそれは美術予算が衰弱して以前のようにセットワークを活かした回り込むようなカッティングができなくなっているからで撮影所の限界が作家を殺している。それでも興味深い出来だが。

 

『女体』(1969)

浅丘ルリ子は見事に役を演じきってしまっているのが弱い点でどうも厳しい。ネックレスの鎖を自らを縛るように手に巻きつける仕草とか、何かと齧ったり指を吸ったりする様子を見ていてやり過ぎて様式化しすぎて俳優を取り逃している。他にも『痴人の愛』の大楠道代、『やくざ絶唱』の大谷直子、『でんきくらげ』の渥美マリといった俳優を扱いきれていない。
 芝居の様式化の何が悪いかと言うと、こうした演技というのは型にすぎず古びるしかないのである。単なる舞台劇の記録よりも映画が優れているのはドキュメンタリー性にあると思う。それは俳優を型に嵌めるというよりかはそれを打ち破るような芝居をさせて初めて生きるということでむろん、それには相応の資質を持った俳優から引き出すのに直面しなければならないのだから難しいのは当然だがローテーションから抜けた素晴らしい瞬間が訪れた作品というのが映画のもつ生々しさだと思う。

 

『親不孝通り』(1958)

上映の機会が珍しいからといって大した傑作にはならないだろう。なんとも物足りない出来で確かに見せ場の作り方は逆算して書いているので劇的に盛り上がっているがいかんせん同時代の日活のプログラムピクチャーと大差ない風俗的な描写がふんだんに盛り込まれているせいで散漫な印象をぬぐえない。これなら舛田利雄とか松尾昭典といった腕のある監督が撮っても間違いのないもので、増村保造が力を入れて取り組んだ独創的な作品とは言い難いのではないか。この頃の撮影監督は若尾文子の義兄のベテラン村井博でのちの小林節雄との奇異なアングルに顕微鏡的に詰まった構図による試みに比べると惹かれない。画面の上で際立って悪いところがあるわけではないが月並みだった場合特に拾う箇所がなくむしろ退屈に見てしまう。

『闇を横切れ』1959

 ラ・マルセイエーズの口笛が煩わしい。黒澤明菊島隆三流の対位法があまりにくどくて仕方がなく台無しである。ラストシーンのために無理矢理山村聰と殺し屋と高松英郎を処理する強引な作劇でもいいが、観客を馬鹿にした心理的な演出は間違いなく古び今見ると耐えがたいものになる。
 山村聰がはーはははと笑いながらすべてを暴露する場面は痛快でここに現れる川口浩シネスコで正面から切り返すのはなかなかインパクトがあるシーンとして見事だ。汗を拭いたハンカチをポケットに入れてやるショットがいい。まったく悪い映画ではないし著しく見劣りするわけではないがいかんせん増村保造の傑作に受ける鮮烈な衝撃に比べるとどうも物足りないと言わざるをえない。