映画評『モンスターハンター』(2020)

 愚かしいまでに薄っぺらな表層と戯れる野蛮さには涙した。

 画面の質は上等で、そびえる砂丘に立ち尽くすミラ・ジョヴォヴィッチを逆から入った光で顔を浮かびあがらせてうつくしく照らしている。

 もう少しショット数を抑えて説明でドローンのイントレランスをやりさえしなけれは許せる。ゲームでマップが切り替わる度に俯瞰がインサートされるのと同じようなカット割りがはっきり言って煩わしい。あの蜘蛛のような化け物の巣に落ちて絵を引いてしまうのはおかしい。古典的な映画を見れば、暗い邸宅や洞窟に迷いこむとその空間がいったいどうなっているのか主人公がわからない状況に陥っていた場合、撮影機は付かず離れずの距離を保ったり、急な仰角や俯瞰といった覗き見るようなショットをインサートして我々の知覚を狂わせ不安にさせるものだ。いまいる場所をすべて把握させてしまったらメタ的な認知をしてしまうことによって見る喜びが損なわれた情報になってしまう。

 同じアンダーソンの『バイオハザード』もラストショットがこうして終わっているが、それでもやはり節度というものがあった。あれはエンドクレジットから数えて計13に渡るショットは、繰り返されるキャメラワークによって幾つもの視覚的情報が重なっている。まず最初のショットでは、非人称を帯びた監視カメラのモニター画面から実際に廊下を歩いているミラ・ジョヴォヴィッチを捉える撮影の横移動。次に廃車が散乱した街路を歩く彼女を再び追い、不意に画面の手前に現れる「DEADWALK」の新聞記事によってゾンビが街を襲ったのだと認識できる。そして最後には、彼女の顔のクロースアップから徐々にズームアウトし、手に持ったショットガンの持ち手をスライドさせるのを合図に、思い切り俯瞰のロングショットへと引いて血塗られた街の全景が明らかになる。これらどのショットも手がこんだ長回しで、近景から遠景、遠景から近景、近景から遠景と抜群のタイミングに、俳優の動きをきっかけにした編集が、リズミカルなショットの連鎖を紡いでいる。当然ここには一切の会話はなく、またゾンビも映さずに、すべて語りきっているのだ。

 山崎紘菜はほとんどセリフのない端役として存在している。その彼女を際立たせる為に始終ズームする望遠鏡がついたゴーグルをつけているのは明らかだろう。彼女がクロースアップになると強調された着脱音ともに外して顔が露わになるワンショットがあるが、人物の見せ方としてはよくできてる。『風の谷のナウシカ』のパクリなのかもしれないが。そういえば、トニー・ジャーが初登場の時に骨を削っているのは『幌馬車』(1950)のような芝居をつけているのがわかるだろうか

 だが、『モンスターハンター』は繰り返すが、あまりにゲームのようだ。わざわざ撮らなければ良かったのに。

 それに、物足りないのが、化け物を撃つ、食われるがすべてカット割る点だ。トニー・ジャーが弓を引いて竜に向けて矢を放つショット。これをなぜ極端に割ってしまったのか理解ができない。ジャーが弓を引く、竜に当たるの繰り返しで単調である。それはアメリカ軍の兵士たちが撃つ機関銃でさえ同じで、流石にここまで品なく銃撃戦を撮るのかと唖然とする。

 このように、あまりに編集が粗雑でアクションをぜんぶ省略しているから、碌に動体視力で知覚することができない。冒頭に砂の海を走る船から落っこちるときに撮影の位置が真横から撮っていて不味い上に、そのまま落下物にパンしてしまうから、薄っぺらく奥行きが存在しない。