映画評『イエスタデイ』(2019)

『イエスタデイ』が並みの映画なのは冒頭の数ショットの連なりを見ればわかる。


 通りで弾き語りをしているヒメーシュ・パレルの後ろ姿をロングショットで納め、画面をわざとスカスカにして誰も足を止めないことを示し、手前をやる気のなさそうに歩くウサギの着ぐるみが通りかかり、殺風景さを際立たせる。

 こうした簡潔なショットは恐らく日本のテレビドラマだと、ヒメーシュの顔のアップが必ず入ってしまうのだろうが、ボイルはそこまではしくじってはいない。


 リリー・ジェイムズがパレルに告白する時に、イマジナリーラインをさり気なくズラした構図=逆構図のカットバックをして見せる辺りも大胆さは欠けておらず、事実、少しばかり涙してしまった。

 また、リバプールのホテルでテレビを逆光にキスするのも中々イカシテルし、録音スタジオが貨物列車の沿線にあるという荒唐無稽なアイディアも笑える。


 パレルを含めた登場人物たちはビートルズがいない世界によって分裂した虚像であることを、鏡を使ってさりげなく示しているのも好感がもてる。

 クシャクシャの髪のリリー・ジェームズの顔が、コンサート会場の巨大モニターで大写しになっているなか、パレルが真実を告白するのも正直目を見張った。


 だが、どうもイマイチ面白くないのである。

 それは2キャメで撮ってる時のリリー・ジェームズの顔のクロースアップがピンぼけしてるだとか、彼女の谷間から黒いピンマイクが見えてしまったり(妄想の場面で)だとか、そういう細部の粗さの積み重ねかはわからない。


 スーパーマーケットのGOproのショット、やたらにチャカつくカット割り、アニメ演出みたいな小手先の技も目立つ。


 脚本もまるで日本のシナリオ教室の講師が大好きそうな企画なうえに、いわゆる三幕構成だとか、登場人物がメンターだとか友人によって変化します、みたいな図式性が凄い。

 かつて、オールユーニードイズラブで告白するのも、『ラブアクチュアリー』でやってたではないか。


『アリー スター誕生』はいわゆる話とカット割がギクシャクとしていて、歌う場面の音声と映像の分離が見事に、ガガとクーパーの関係性を際立たせていたのに比べて、『イエスタデイ』はすべてが当たり前すぎる。実に普通な映画だ。