映画評『浮草』(1959)

映画評『浮草』(1959)

 まず、冒頭、灯台に平置されたかのように忽然と置かれたガラス瓶、二艘の漁船、村の家々が映し出される。それらのショットの後景に共通しているのは真っ平らな海と空とが真正面から撮られていることである。小津が醜悪な『万引き家族』だか、『寝ても覚めても』だか、あるいはなんだ『OLD』のように海をまるで地平線かのように撮るのは稀であった。事実、『晩春』や『麦秋』の海は斜めから撮られることによって波として、『東京物語』の東山千栄子笠智衆が防波堤に並んで座る場面は俯瞰から撮られていることによって燦然と輝く水面として見せたものだ。だが、ここでは恐るべきほどまでに、海が海そのものというよりは、群青色としてのみ空と共に広がっている。


 その後、赤いポストが映し出されたおりに、村の役場で他愛のない暑さについての会話がはじまる。この時、村民の男が手に持った黄色を基調とした歌舞伎のポスターが壁に貼られる。ポスターを貼ることはもちろん駒十郎一座の来訪を告げると同時に、画面に豊かな色を与えるためという二重の機能を果たしている。たったこれだけのなんの変哲もない身振りが『浮草』の色彩の説話論的体系と主題論的細部を予告しているのである。そっけのない色味を帯びた島の風俗と鮮麗な色彩の対比の関係はじつにもっともらしく、ある契機まで持続する。

 あの撮影監督宮川一夫が生涯悔いたという俯瞰からの、旅一座が練り歩く様子が映し出されるなか、島民の子どもがなにごとかとつきまとう場面を思い出そう。若尾文子含む旅一座はみな華々しい白色に紺と赤が調和した衣装を身につけていたが、それに対して村民はみな抑えられた色調の着物を着ていた。 また「駒十郎一座」と書かれたのぼり、それからポスターもまた、殺風景な青空と黒い瓦造りの家々と石畳に、それぞれ豊かな色味を添えていたわけではなく、むしろ相殺される。それは野添ひとみの床屋だろうと、賀原夏子のいる女郎宿だろうと事態は変わらず、彼女らが着ている嘘としか思えないほど純白の服がいっそうその主題を強調する。
 たしかに、杉村春子の一膳飯屋には養鶏頭の花が赤として存在しているものの、それは息子の川口浩の生活する二階の飾り気のなさ、色の欠如を相対化するためだ。いい歳をした青年だろうという彼が冊子や蚊取り線香といった生活用品を一切持たず、ただ赤みがかったペンケースをちょこんと机のうえに置いているだけというのは心理的に言えば不自然だといえる。彼もまたそれが一丁羅だとでもいうのか、何時だろうと白いシャツを着たままである。
 その川口浩が勤めているところが郵便局というのもまた説話の律儀なまでの厳格さを知ることになる。ここでの郵便局は赤のためにのみ存在し、そこにある赤い鉛筆もまた若尾文子の舌先に触れるためにのみ置かれている。「ソコマデ キテクタサイ」とまんまと誘惑にのった、川口は若尾についていき、芝居の終わった夜に会う約束をする。ここで画面の手前にはやはり赤色の自転車が停まっているわけで、いささか性急ながらも『浮草』の赤を誘惑の赤だと定義できるかもしれない。事実、野添ひとみにちょっかいを出した田中春夫は高橋とよのカミソリによって頬を切られ、血を流したことを暗示させる白いガーゼが単なるギャグを超えて赤の主題として露呈しているからだ。
 だが、『彼岸花』の赤いやかんに起源や意味を求めるのと同様、その考察もこれから起こる身震いするほかない瞬間に立ち会ってしまう事によって覆される。『めまい』の廊下のように光と影とが交錯する劇場の廊下に、若尾はぽつりと待っている。そこに川口は近寄り、立ち止まる。ここでお馴染みの切り返しが起こると、川口は闇に隠れて人影と化し、若尾がなにを言おうと応えない。彼女はその川口を手に取るように、廊下の奥の明るいところへと連れだし、背中に手を添えて唇と唇とを重ねだす。やがて、ふたりは廊下の奥へと進んでから、今度は川口の方から若尾に接吻を果たす。紙吹雪がひらひらと舞い散り、これまで起きていた色彩の機能を無にしてしまう。
 川口浩が影法師と化してしまうことによってその機能は色彩との対比のために白ではなく、黒と白の対比のために現前する。
 この後の展開において夜の場面が頻出し、どこもかしこもフィルムノワールのようなほとんどキーライトとバックライトのみの闇の世界へと突入し、なかでも古道具屋が一座の衣装を買いたたく挿話に代表されるように色は『浮草』から奪われてしまう。さらに中村雁次郎が若尾と京をひっぱたいたあと、階段をかけあがって鏡台のまえにむかう。すると、彼もまた息子同様の影法師になってしまう。
 色彩映画としての身振りをやめ、黒白映画と化してしまった『浮草』。これまでにあった色彩と濃淡とが、機関車が青みがかった闇へと消えていってしまう最後を息を呑んでみるだろう。