掌編小説『鼠の暮らし』

 今考えると信じられないことだが。僕は中学生の頃合気道へ行くのが嫌で、サボって近くの図書館で時間を潰していた。そこは黒沢清のホラー映画のロケ地にも使われるぐらい郊外にある、小汚く無機質で地味で殺風景な死んだ建物だった。半地下にあるものだから薄暗く、静かだった。比較的狭いが、来館者も年金生活の老人ばかりで閑散としていた。

 隅の静かな閲覧室。僕はスティーヴン・キングの小説を読んでいた。『キャリー』とか『スタンド・バイ・ミー』と飽きずに読み続けていたのだけれど、キングっていつもなんだか肥満児やギークや処女みたいなスクールカーストを、安っぽく青臭い性描写と血みどろの残虐シーンを織り交ぜながら、キリスト教の狂信者をおちょくったり、聖痴愚を活躍させるという、いかにもティーンエイジャーが好きそうなものだなと今は思う。その程度のチープなものでも1時間ぐらいの稽古をやり過ごすにはちょうどいい。

 雨が降っていた暗い沈んだ日に、僕は『書くことについて』のページをめくっていた。それはキングが自身の文章作法について書いたエッセイだ。彼はしきりに口酸っぱく抑圧をかけていて、「副詞のタンポポ」などと吐き捨てるように、装飾的な文章を揶揄していた。その薫陶を受けて、国語の授業中に漱石の『心』の文章を添削し、線を引いていたら罰当たりだと国語の教師に叱られてしまった。あれはもとは新聞小説だから通俗寄りで文章がまずいというのはどこかの批評家も指摘していると後で読んで、間違ってはいなかったなと安心したものだ。

 ねえ、読書会に参加しませんか? と声をかけられた。その人は大学生ぐらいの眼鏡をかけた生真面目そうな痩せた女性で、どうせ暇だったので参加した。参加者は僕を含めて4人しかいなかった。それはちょうどキングの『ミザリー』だった。事故を起こして瀕死の小説家の男が、近くに住む女性に介護されて九死に一生を得る。なんと彼女は狂信的なファンで小説家が小説を書きあげるまで自由にさせるわけにはいかないと監禁されるというサスペンス小説だ。

 太って髪を茶色に染めた中年の女性が話しだした。彼女は映画しか見たことがなくて、この読書会を機に原作を読みだしたのだが、気狂い女を演じるキャシー・ベイツがニコニコとした顔から突然豹変していって原作との違いがわかって面白かったそうだ。

 主催者の30代ぐらいのひげを生やした男が言うには、この小説はようはヒッチコックの『裏窓』がアイディアの源にあるに違いなく、それで映画になったのだろうとかみ合っていそうでいない会話をしていた。

 僕は先に話した二人が指摘したこと以外に何か感じたことがなかったので何も感想が浮かばなかった。なので、代わりに『クリスティーン』で茶を濁した。あれは呪われた自動車が男に憑りついて破滅させる話ですよね。

 主催者の男は頷いた。確かに『クリスティーン』もああいう話しだ。

 眼鏡の若い女がいった。あれはファム・ファタルアレゴリーなんですね。キングの女性嫌悪的なところがでていますよね。わたしは『ショーシャンクの空に』とか『グリーンマイル』が好きなんですけど。ああいうブロマンスみたいな作品のほうが良くて、『スタンド・バイ・ミー』もそうですよね。

 中年の女性が聞いた。女性嫌悪

 女性が破滅をもたらすみたいなのっていうのは男性の去勢不安を表しているんです。家父長制社会じゃないですか。そういうところでは、女性が力を持って反乱されるのが怖いんです。

 主催者の男は居心地の悪そうな顔をしていた。

 僕はむしろある種納得した。確かにキングの小説はBLっぽい。『IT』とか特に。

 キャリーが生理をきっかけにテレキネキシスの力を爆発させるみたいなのもあれは女性の機能をおぞましいものだと、内心思っているからなんです。

 ああ、『ローズマリーの赤ちゃん』ってそういう話なんだ。と中年の女性が言った。

 それってなんですか。と眼鏡の女は聞いた。

 むかし、テレビでよくやってたんですけど、新婚の女性が妊娠すると不安に襲われるんです。おなかにいる赤ちゃんが悪魔なんじゃないかって。

 ええ、そうなんですか! それってもう本当に男尊女卑ですね!

 主催者はぼりぼりと頭をかきだした。

 僕はもうそろそろ頭がぼっーとしてきて帰りたかった。

 主催の男は苦笑いしながら、ちょっといままでそういう風にキングの小説を読んだことがなかったので、次の読書会までにそういうフェミニズムの本を読んでおきます。どんな本がありますか。

 斉藤美奈子先生の『妊娠小説』っていうのがあって本当に面白いですよ。

 主催の男はさっそくそれを借りて、読書会はお開きとなった。

 雨はやんでいた。湿った冷たい風が吹く路地を歩いた。僕は坂道を降りていると、背の高いどこかで見覚えのある男とすれ違った。「男のくせにふざけやがって」、そいつはそう言って足早に通り過ぎていった。

 僕はそのがさがさとした声から誰か思い出した。小学校の頃、体育教師だった男だ。彼は横暴で、運動会で勝つために自分のクラスだけ敏捷な生徒を集めて優勝を獲ったあげく、雪が降り肌を焼くほど寒い日の体育の授業では依怙贔屓してジャージを着せて授業をしたりとすさまじい暴君だった。体調が悪いのに僕は無理やり走らさせられたので、見事に体を壊し、肺炎にかかって2週間も学校に行けなかった。ほかにも、いろいろとひどい仕打ちを受けてきたので、卒業する前に校長室の戸を叩いて、いままであったことを打ち明けた。そのせいか、その次の年度、彼は別の小学校に異動したらしいが、まさかここで会うなんて。

 僕は振り返って、そのかつての体育教師の後ろ姿を見送った。紺色の丈の短いダッフルコートがどこかみすぼらしい。そして、ほっとした。僕のことを恨んでいるということはきっと、僕がやったことは効果のあることだったんだと。

 僕は次の週も合気道をさばって図書館に行ったが、もう読書会は行われてはいなかった。そして、あの体育教師ともあれ以来二度と会わなかった。