映画評『クワイエットプレイス2』(2021)

映画評『クワイエットプレイス2』(2021)

 はっきり言って物語の整合性でいえばすべてが破綻している。登場人物が行動へと思い立つ理由さえまともに描かれないのだ。
 いわゆる一般的なドラマ作りだと怪物が巣食うあたりを彷徨く少女を追いかけろと言われたらば、それに対して酷く長く冗漫な段取り芝居を演じてから銃を構えて出発するところをきっちりと撮るだろう。その行動のきっかけをいつの間にか省略していきなり娘の絶体絶命の瞬間に駆けつけるというご都合主義きわまりない登場によって見事に結局どういう心の動きがあって来たのかは映像によって長々と説明されるのではなく、観客が後から推測するように委ねられている。むろんこのキリアン・マーフィーにとって妻を失った悔恨の念があってのことだろうと認識するわけだが、それを必要以上に大仰な芝居にしていないから結果的に優れて淀みがないのだ。
 サスペンスにも現実の理屈を合わせると無理がある。実際、流石にあの密閉された竈門に閉じこもったところでそう簡単に酸素濃度が薄まって危険な状態に陥るわけではないだろうし、エミリー・ブランドがなぜメーターが話の都合に合わせて急速に減るあの酸素ボンベが水の中にあるのかわかったのかまったく意味がわからない。列車の運転室に救急キッドがあるのを知っているのもおかしいしそもそも取りに行くよりも今探しているのは船の方で、それに一体なぜわざわざ工場の2階へと上がっていったのかさっぱり理解ができない。
 なるほどたしかにこの脚本は勢いに任せた荒唐無稽で出鱈目な粗だらけの稚拙な水準なのかもしれない。なにしろ、シナリオが文学だとするならば最低も最低、描かれて然るべき箇所が存在しないのだ。あのH・R・ギーガーの没デザインのような、『ストレンジャーシングス』の頭部に花弁のついたデモゴルゴンもどきの化け物はどこから来たのか?あの隕石についてきたのはいいとして一体どういう目的でやってきたのか、侵略か虐殺かそれとも『エイリアン2』のように化け物の女王がいてその卵を産みつけにきた繁殖のつもりか、そういった説明がいっさいされないし、なぜたかだかハウリング音程度で弱点を剥き出しにした挙句地球人の原始的な兵器で絶命する生命体がどうして地球に降りることができたのだ。家族関係に関しても『宇宙戦争』ほど子供を救うことへの焦燥に駆られて駆けだしたりはしない薄情ぶりで、あれだけ苦労して産んだ赤ん坊を『ドリーの冒険』のジプシーのようにトランクに入れるという虐待そのものというか物体として扱うかのような非常識で非人道的な行いをしていて真似をする子供がいたらどうするのだと生真面目に抗議する者がいるだろうから削除すべきエピソードである。あるいは乳幼児をきっかけにする物語が進行するのは『続・激突カージャック/シュガーランドエクスプレス』の剽窃だから著作権侵害だし、ボンベのメーターのクロスカッティングのサスペンスをラストミニッツレスキューで無理矢理描くために登場させたとしか思えない。せっかく安全だった島に怪獣を連れてきたこの鬼畜で無責任な極悪人どもは化け物を連れてきた張本人として『ミスト』のように糾弾され、処刑されるべきだろう。それにこの映画には1作目において考証されていた音を立てない生活のディテールを積み重ねてはおらず、日常との持続を飯を食う場面が一切ないのでまったく現実味に欠ける。空疎きわまりない馬鹿げた娯楽映画の一本にすぎない。いま指摘した事柄はすべて辻褄を追った論理的に解いた順序だった指摘になるわけだ。そうしてこのように物語を読んでしまったが最期もう2度とこの映画を楽しむことはありえない。早急に映画祭で賞を獲った作品でも見て口直しに頭から忘れてしまえばいい。
 さて、かのヒッチコックは『めまい』のキム・ノヴァクが消えたアパートについて「アイスボックストーク」、つまり、観客が家に帰って冷蔵庫の物を引っ張り出している頃に「あの場面はどういう理屈だったんだろう」とふと思い出して話す程度の作品の評価の上では取るに足らない出来事を回想して漏れる会話をそう呼んでいる。では、この映画の不可視のシナリオよりも可視的なショットを思い起こしたらばどうなるだろうか。 まず、揺れる信号機をとらえた街路から始まり、街路はやけに静かである。これは1作目で地面に落ちて枯れ草にまぎれた信号の反復であることは言うまでもない。そこに自動車が停まり、ジョン・クラシンスキーが降りて雑貨屋に行くようすを滑らかな横移動のショットで撮ってオレンジ(むろん食わない)を手に取る様子を撮る。PHARMACYと綴られた看板からわかるように1作目と同じ店が崩壊前に運営されていたようすである。テレビを食い入るようにみつめる店主と老婆、そこにやってきたクラシンスキーとの間でラックフォーカスが起きる。ここで観客はピント送りがある映画つまり、画面がぼやける領域とくっきりと映る空間が演出されることを意識するだろう。1作目であったピント送りは単に橋の奥へと歩いていく一家を追ったシンメトリックな広角の絵で用いられた技術的な技法であったのに対してこの場合きちんと説話と画面を両立させた細かな場面だ。


 静かなと先程書いた街の通りだったが、その実はサウンドに溢れており、クラシンスキーが再び歩くと居酒屋からは野球中継の音が聞こえ、トラックの荷台にのせられたドーベルマンは、はあはあと息をしている。ここでは細かに抽出された音を聞き入ることを要求される。


 そして、クラシンスキーがようやく野球場につくとガヤガヤと賑やかな公園を横切って、ブラントに手を振る。ここで寄り絵のカットバックにならない点が優れて魅力的ですっと見ていると、野球帽のキリアン・マーフィーがでてきて唐突に故障するラジオによってこの俳優そのものもと不吉な予兆を画面に呼ぶ。すると、打席に立った少年がバットを振ろうとすると空にとてつもない光輝く隕石が降っている。思わず審判はヘルメットを脱ぎ呆然と立ち尽くすし、周囲の人々も同じ身振りを繰り返し、そのままいそいそと避難をしだす。先程いた犬が吠えだす。クラシンスキーは隕石の方向へと走る人々の流れとは反対に、子供を連れて自分の車に乗せるとすぐに戻って黒人の警官に話しかける。ここでおそらく彼が警官とフランクに話していることから同僚だと推察できるがそれも束の間、いきなり画面外から素早くあのモンスターが駆けつけて人間をなぎ倒していく。ここで驚くべきなのはこの映画の群衆が隕石に誘導されていたのと同様に観客もまたそちらの方角を気にしていたと思いきや、醜い獣の殺戮の瞬間を焦点が合っていない引き絵で目撃する。すぐさま子供を連れて逃げだしダイナーに隠れる。そこにはすでに人がいて叔母に電話するカップル、神にぶつぶつと祈る男がいてクラシンスキーはそっと手をおいて沈黙しろと合図をする。ゆっくりと近づく擦れる鉤爪。着信音が鳴り、ガラスは破れ容赦なく切り裂かれて飛んだ肉塊をくぐりぬけ、逃げだす。これらの充実したショットとサウンドによってワンカットで蹂躙されていくさまが映し出されるが、果たしてスピルバーグがこの脚本で映画を撮れるのだろうかと思わざるを得ないほど巧みな手腕を垣間見ることができる。『ロストワールド』で息を潜めて滝に隠れているとティラノサウルスが顔を覗かせるあのショットに影響を受けたとみられる箇所があった1作目の『クワイエットプレイス』とは著しい演出の変化が見られるのだ。


 たとえば、あの島で虐殺が起きる場面だが、起きるだろうなというのを事前に知っているのもあるし、めちゃくちゃのどかな絵を見てるというのもあって実に狂騒的に映るのだろうが、それに合わせて身構えてるなかバシッと井戸にいる男の人が殺されるのが爽快感があるのだ。画面の流れが音響と視線で追いやすいということなのだろうか。
 それは撮影や整音が予算の向上によって著しく飛躍したことも関係しているだろう。裸足で地面を踏んで歩くエミリー・ブラントたちの生々しさがザラザラとしたパナヴィジョンのパナフレックスミレニアムまさにフィルムライクというにふさわしい絵によって臨場感あふれる画面を提供している。撮影監督のポリー・モーガンは見事なレンブラントライトと言われるような顔の片側に強い光を当ててくっきりと輪郭を浮き彫りにしており、また逆光を活かした絵作りでこの荒涼とした世界観を表現している。船着き場の夜景がこの上なく、モーターボートというのは絵にならないことを『ウォーターワールド』は証明し、『ブラッドワーク』が揺れてたゆたう船舶がきわめて印象深かったがそれに近い感覚があるし、幾つかある太陽に見立てた光線が照らす画面のうつくしさは近年稀に見るものである。この映画の俳優たちは美男美女ではなく、クラシンスキーにしても目はぎょろぎょろで大きい鼻に唇が横に広いという特徴的な顔立ちだし、ブラントもブラントで彫刻のような凹凸のある立体的な骨格の面立ちで、少女役のミリセント・シモンズにしろそうなのだ。ただ、映画ならではの光線によって照らされることによって彼らの表情がきわめて鮮明に映されており、ほとんど絶対的な大スターなしでここまで惹かれるように撮れる環境にあるというのは驚くべきことである。この監督は映画史を変えるとまでは決して思わないがこれは紛れもない事件だ。