映画評『千羽鶴』(吉村広三郎監督、1953年)

 透き通った風が背の高い笹の葉を揺らす。思わず、茶室にいた森雅之と木村三津子はそちらの方に視線を向ける。森はその隙にふと木村三津子の顔をじっと見つめる。伊福部昭のスコアとともに昂る視線劇は見事としかいいようがない。

 まず、森雅之は女ばかりでる映画のなかで黒一点の色男であって、途中で出てくるサブキャラの菅井一郎は松葉杖をついていることから去勢されているように、明らかに特権的な立場にいよう。

 だから、茶室で木暮実千代杉村春子、木村三津子から覗かれるわけだ。その覗く事は木村との間に無邪気に反復されるであろう。

 だが、木暮、杉村の場合事情が異なり、父との因縁を持つ過去を知る女たちから見れば森雅之に対して、感傷を込めた視線を送らねばならないだろうし、表情にも新劇らしい芝居を打つ必要がある。

 ただ、森雅之から見ればとうの昔から知っている女は見る価値もなく、あらゆる箇所で俯き、視線は合わない。だから、木暮はセリフにもあるように、森雅之にすがりついてくる魔性の女として迫りくるのだ。

 さて、本作のスタッフ宮川一夫岡本健一のコンビはものの見事なハイコントラストで、モノクロームを目が覚めるような鮮やかさで描写しきっている素晴らしいとしか言うほかない映画であって、特に驚いたのは広角レンズの呼吸。

 普通、足まで写るアメリカンショットであれば平行なアングルから狙うであろうところを、あえてやや俯瞰から狙い、樹々にもたれかかる木暮実千代を納めている。この後に、回り込んだローポジションから寺の階段を斜めの構図に取り入れ、その上にいる森と木暮をやはり広角で納める辺り、『用心棒』で望遠レンズばかり使わされていた息苦しさとは無縁な自由闊達さに酔いしれる。