映画評『寝ても覚めても』(2018)

Ⅰメロドラマとは

 「メロドラマとはなにか?という問いにひとことで答えることは難しい。が、過剰なる感情のための過剰なる形式であるととりあえず定義しておくことはできるだろう。たとえば愛に身を焦がすひとりのヒロインがいる。メロドラマ映画は、ありとあらゆる技法(カメラ・アングル、フレーミングモンタージュ、照明、衣裳、音楽等)を投入して彼女の思いのたけを微にいり細にいって観客に伝えようとする。伝わったときにはすべてが遅すぎるのだ。しかし、観客はこの哀れなヒロインの恋心を細大もらさず知ることができる。要するにメロドラマとは観客とヒロインとのあいだだけでの感情ゲームであり、観客はヒロインと同じ量の涙を流しさえすれば、それで楽しく映画館を後にできるのである。」(一)と加藤幹朗は『映画のメロドラマ的想像力』に書いている。

 濱口竜介監督の『寝ても覚めても』は後述する作品評の通り、典型的なメロドラマのルールを踏まえてすすんでいく。

演出の類似点、有効性
 どことも知れない川が映し出される折に、橋が顔を出し、次に通天閣が映しだされるから、ここは大阪らしい。そこの美術館で双子の写真を眺めている女性がいる。そこにひょいっと白いシャツを着た男が通りかかり、彼女は着いていく。男は音を立て、上昇する階段すなわちエスカレーターを登り、女も乗る。まだ、男の顔はわからない。
 そうして、ずっと追っていくと、いつしかさっきの川に辿りつく。そこでは少年たちが爆竹で遊んでいる。男が振り返ると、朝子と目が合う。ここでは、スローモーションの中、音楽が流れ、カットバックによって見つめあう事が起きる。カメラが斜めから切りこんでいることによってイマジナリ―ラインに狂いはないのにどこかずれたショットにみえる。

 加藤幹朗は『映画ジャンル論 ジャンル映画史の多様なる芸術主義』にて、『街の灯』のラストの繋がっていない切り返しをこう分析している。「「カットバック(切り返し)とは、ふたりの人物の視線を熱く(自然らしく)つなぐことによって、ふたりの空間的近接性となんらかの精神的持続性を保証する手法である。しかし、この最高のクライマックスにおいて、もしかれらが花の位置のずれた「嘘の編集」によって、そこで幸福な涙による再会をはたしえないことになるとすれば、これは放浪家チャーリーの未来を暗示してあまりある編集技法ということにもなるだろう。」(二)。本作もまたそうした顛末を迎えることが、観客に訴えかける。

 ここで歩み寄っていく様子を足もとにクロースアップして、そのままトラッキングして、次のカットでは2人が抱き合う。しかし、それは花火の音と、炭が割れる音によってかき消されてしまう。
 ここまでが男と女、朝子と麦、あるいは『寝ても覚めても』の馴れ初めである。この一連のシークエンスはいっさいの台詞もなくサイレントで映しだされていくため、観客は息を飲んでこの一目ぼれを眺めるほかにない。このある種過剰でいて、一種の荒唐無稽な演出はまさにかつてのダグラス・サーク木下恵介を思わせる。前者であれば『天はすべて許し給う』の雪が降り積もる中、戸外のカメラがだんだんと家に近づいていき、讃美歌を歌う少年隊が通り過ぎていくと、ジェーン・ワイマンが窓のそばで悲しみをおびたまなざしで外を見つめているショットで、後者でいえば『お嬢さん乾杯!』で原節子佐野周二の元へと駆け寄っていくときの足元のトラッキングはそれそのものだといっていい。

 さて、2018年に日本で公開された3本の映画は同じDNAを移植されたクローンのようにふるまっている。『寝ても覚めても』でバイク事故を起こし重なり合う朝子と麦、『レディ・プレイヤー1』でカーレースのさなか転がりサマンサの尻に文字通りしかれるウェイド、『トイ・ストーリー4』でラジコンカーから振り落とされるカウボーイのウッディが逆にボーの下敷きになるという同一の展開を見せるのである。実に馬鹿馬鹿しい話だが、これはそれぞれの監督が男女の心理的距離感覚を表象するために交通事故を口実にしているのだ。距離とは運動であり、運動とは行動であり、行動とは真実である。

 こうした演出を蓮實重彦は活劇メロドラマ『ナイト&デイ』の批評において、「まず、有効さに徹した演出のおさまる過度の透明性は、しばしば「馬鹿馬鹿しさ」の印象を与えかねない。(中略)にもかかわらず、その過度の「馬鹿馬鹿しさ」が映画の現在にとって貴重なのだといいたいのだが、映画だけに許された爽快な透明性を享受する権利を曖昧に放棄し始めている二十一世紀の人類にそうと説得するのは、容易ではない。」(三)とあるような、映画本来の魅力がこの作品には宿っている。
 この後、二人は交際を始める。『レディプレイヤー1』もそうだったが、バイク事故を起こして、抱き合い、接吻をする。『寝ても覚めても』でも「接触」、「同一方向を見つめる」、「お互いに見つめあう」、「そのまま口に出す」という順に愛の表現が強くなっていく。

 だが、麦はある早朝に「パンを買いにいく」と言い残すと、朝子の前を去っていってしまう。この時、カメラが大きくトラックバックしていき、二度と会えないのかもしれないという錯覚におそわれる。その後退運動はこれまでシャブロルが『不貞の女』で、あるいは内藤瑛亮が『ミスミソウ』において同じように二度と会う事はないであろうという時に使った、今生の別れを描くのには恰好のテクニックである。
 しばらくして、朝子は別の場所で落ち着くことになる。そこで、会ったのは麦そっくりの男、亮平であった。

 彼女はつい、その麦とそっくりの頬を手でなぞる。その感触を亮平は忘れられず、雨粒を拾う。そうして、ようやくあの非常階段で告白するさいに、2人は触れあい、ふたたび抱き合う。ポンポン船がビルのすき間から流れ、またもや川が映しだされる。
 朝子にとって麦は幻想の存在、向こう側の人間として描かれる。北海道という海の向こう側の地からやってきたことや、テレビの画面に映し出されることからもわかるが、イメージの中にいる夢、獏(バク)なのだ。だから、朝子は瓜二つの亮平を出会うと、ラングの『飾り窓の女』のように幻のように幾度となくショーウィンドウに映り込んでしまう。喫茶店で麦が朝子をいきなり連れ出す時、フィルムノワールかのような影と光が交錯していたのにもそういうわけがある。彼女が掴んだのは憧れなのだ。

 加藤幹朗は前掲書にて、メロドラマについてこうも書いている。「前章でも論じた『オズの魔法使』とはひとことでいえば、それはドロシー(ジュディ・ガーランド)の夢の恍惚冒険旅行ということである。(中略)そして、ドロシーが破天荒な夢から覚醒し、「虹の彼方」の魔法の国から実家に帰ってきたことに気づくと「やっぱり我が家が一番だわ!」と力強くいいきって映画を終わらせる。一度、ファミリーを否定することで冒険旅行にでかけたドロシーは、「我が家」の価値観」を再発見することで無事、悪夢の冒険旅行を終わらせる。彼女の夢は現実の澱を洗い流し、現実の感性を再生させる。」(四)とあるように、ここでの唐突な飛躍はむしろ必然であったことがわかる。  

 携帯を捨て、現実といっさい関わりを捨て、車に揺られる。われわれは男女を乗せて漆黒を切りさいて疾走する車を、これまで多くの映画で見てきたが、ハンドルを握っているのは『スターマン』や『暗黒街の弾痕』のように物語の語り手ではない。そのまま彼岸へと連れていかれてしまう。
 かろうじて、朝子は踏みとどまり、海をただ見つめる。美術館で見つめた写真と同じように海を見つめても、その先にはやはり何もない。もしかしたら、彼女は寝ても覚めても隣にいた亮平を思い出したのかもしれない。あるいは、あの川を。朝子演じる唐田えりかの面持ちは途方もない。このただことならない瞬間を補足するために、塩田明彦の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか?』で語られている、こうした焦点を欠いた表情に関しての講義を引用すると、「そのとき、その見つめ返してくる視線を奪ってしまうとどうなるか? 「物としての顔」の究極のかたち、デスマスクこそが、まさに見つめられることなく見つめることができる顔、物としての顔ではないか。そして、その物としての顔から、どこか死の気配やエロティシズムが浮かびあがってくるのは、まさに「死に顔」や「覗き」という、「こちらを見つめてこない顔」と密接に関わっているからではないか。」(五)とある。 

 朝子は家に帰るも、亮平は相手にしてくれない。かつての隣人を尋ねても、ALSに陥り、頼りない視線をお互いに投げかけることしかできない。すべてを失った彼女はなんとかして何かを取り戻そうと、雨の中、飼っていた猫を探しに川辺を歩く。すると、「帰れ!」と、亮平の声が響く。朝子は持っていた傘を放り出し、階段を駆け上がる。

 2人はひたすらに走り続ける。エスカレーターで追ったときのように流されていくのではなく、お互いに自らの意思で。このとき、雨雲によって陰りが降りていた辺りが、嘘みたいに晴れあがっていく。亮平は家に閉じこもる。

 加藤幹朗によると「メロドラマにあってはある種、過剰な翻訳のシステムといったものがいつも作動していて、登場人物の心理とか、登場人物の置かれている状況などは、たとえば階段を降りるといった具体的な目に見えるアクションへと翻訳されずにはおかないようです」(六)という言説はここでも当てはまる。本作は表情や台詞よりも行動によって表現される。例えば、亮平の場合は震災が起きた日に、「列車が止まっているよ」と声をかけてきた青年やショックで座りこんだ女性を気にかけていたことを思い出してほしい。つい拾ってしまうという性格がそうさせたのだ。だいたい、朝子に「麦と似ているから好きになったの」と言われても、食器を洗い続けたようにひたすら優しい人間なのだ。だから、この後、猫をじつは捨てずに家に置いていたことがわかるし、彼女を家に入れてしまう。
 ベランダで亮平は川を見つめている。ニ階へ来た朝子はかつてのように愛されないとわかっていながら、同じようにふるまう。川は流れている、すべてはそのまま続いていく。

 

 

一、加藤幹朗『映画のメロドラマ的想像力』分遊社、二〇一六年、九一頁

二、加藤幹朗『映画ジャンル論 ジャンル映画史の多様なる芸術主義』七六頁 

三、蓮實重彦『映画時評二〇〇九‐二〇一一』講談社、二〇一二年、一一八頁

四、同上二〇五頁 

五、前掲『映画のメロドラマ的想像力』一四頁

六、塩田明彦映画術 その演出はなぜ心をつかむのか?』二〇一四年、イーストプレス、四七頁

 

引用 シャンタル・アケルマンについて『映画史 入門』より

 何人かの映画作家は、断片的な物語を厳格で禁欲的にミニマルに描く戦略を追求した。

 その最たる例がシャンタル・アケルマンであり、この頃もっとも影響力のある女性監督の一人だった。アケルマンのミニマリズムというのは欧州が源というよりかは、ウォーホルの映画だとか北米の構造映画との遭遇からだといえる。『私、君、彼、彼女』(1974)は長回しで描かれた、赤裸々な逢瀬の物語である。彼女の最も権勢をふるう作品は、『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』(1975年、タイトルには主人公の名前とブリュッセルの住所が記されている)である。

 アケルマンは225分以上にわたって、自宅で売春婦として働く主婦の3日間を描く。映画の前半は、家事と同じように細々としすぎたスタイルでジャンヌの生活が描かれる。廊下やキッチンのテーブルを中心とした低い位置のキャメラで、着替え、皿洗い、買春客とのやり取り、ミートローフを料理するところなど、あらゆる仕事が記録される。しかし、ある客の訪問後、ジャンヌのルーティンは不思議なことに崩れ、狂いだす。ついに彼女は客を刺し、食卓につく。『ジャンヌ・ディエルマン』は、フェミニストモダニズムの画期的な作品だ。遅いプロットアクションの弛緩によって、アケルマンは主流な映画が削ぎ落してしまう空虚な間と家庭の空間を観客に見るように強いる。ある意味では、ジャンヌ・ディエルマンは、ネオレアリストのチェーザレ・ザヴァッティーニが夢見た、一人の人間の人生の8時間を記録するという夢を実現する方向に進んでいる――『ウンベルトD』のメイドが日常のささいな身振りから子を孕んだことに気が付く場面を発展させたものだとみなすことができる。しかし、アケルマンは家庭の空間を性的抑圧と経済的搾取の場として扱っている。家事は女性の仕事であり、売春もまた女性の仕事なのだ(ジャンヌの「商業埠頭」という住所が示しているように)。アケルマンのミニマルな作風は、ブレッソン、小津、溝口、そして実験映画を想起させるが、彼女は政治的批判のためにいくつかのテクニックを用いている。スタティックなキャメラで直線的で、ローポジションの画面構成は観客を参加actionから疎外させる一方で、美的かつ社会的に意義のあるものとして家事を威厳づけるのである。

デヴィッド・ボードウェル&クリスティン・トンプソン著、拙訳『映画史 入門 第二版』第23章 1960年代と1970年代の政治的批判映画(原著 P568~569)

映画評『草原の輝き』(1961)

 『草原の輝き』(1961)はいわゆるウェルメイドな映画だと感じた。ストーリーは20年代カンザス州という保守的で家父長制の権化のような環境に抑圧された高校生の童貞バッドと処女ディーニーのカップルがいる。性欲に負けた男の方が誰とでも寝る女で性体験をしたのが学校中の話題になり、青春を謳ったワーズワスの「草原の輝き」Splendor in the Grassを読んでいるうちに自暴自棄になった女が精神を病み入院。数年後、女は院内のアート療法で関係性を築いた若い男と婚約し、男はピザ屋のラテン系のウェイトレスと子供を作って農場を継ぐ。二人は農場で再開するも、ぎこちなく別れる。去った女が件の詩を心のなかで読みあげてそのまま幕切れ。

 正直、接吻だけのデートに不満な生娘役のナタリー・ウッドが母親と話しながら、箪笥に飾ってある貝殻を耳に当てたり、椅子の背もたれに寄りかかるみたいな演出の当時は新しかったのだろうが今見ると野暮ったい演技の様式に古臭さを覚えた。そういう台詞でなくしぐさで見せる芝居がいくつかあって、例えば、ディーニーがバットと子供を作った女と軽く握手をすると少し目を細めて手をぬぐうしぐさをしてフレームアウトすると、その妊婦が少し腹の子を気にするような視線を落とす芝居をするみたいな、セリフなしで語るところもあってので、これはなかなかうまい見せ方だと感心した。

 この映画は当時のヘイズコードの検閲下にあった映画なので、性的な表現がすべて暗示か、別の映像に置き換えられているのだが、そのきわどい露骨さが印象に残る。たとえば、この映画で3回、滝を舞台に逢瀬が描かれる。1回目は冒頭で夜にいきおいよく流れる雄大な滝を背に童貞と処女が接吻する場面、2回目は滝の中で水着姿で童貞とコケットが絡みつくようすが描かれ、3回目は処女が夜会で会った男に自動車で押し倒されるもはねのけ飛び降りる舞台装置として機能している。この滝というのがまんますぎるのだが、性のエネルギーの隠喩なのは間違いないだろう。

 未経験の頃のバッドがディーニーに愛してるならひざまずけと言うとキャメラが引いてブロウジョブを連想させる構図を見せつけたり、男の近況を聞いた女の首から下が鏡に映る女優がトルソー化するフレーミングが印象深い。撮影はボリス・カウフマンのアイディアなのだろうか。

 そして、この映画で童貞と処女の純潔が強調されるのは皮肉にもヌードである。男が童貞を捨てる前にラグビーで流した汗を流すカットがカメラのトラッキングで描かれ、精神を病んだ女が風呂に入って「どうせ、わたしはいつまでもいい子ちゃんなんでしょ!」と母親に憤りそのままベッドで1人うつぶせになる場面からもわかるだろう。単純に性的な視点からのみ男優と女優のヌードが撮られているわけではなく、物語を補うためにエピソードが巧みに配置されているのだ。ロンゴスのダフニスとクロエを思わせるようなみずみずしさだ。

 さて、この映画のいちばんの見せ場は、2時間の上映時間のちょうど真ん中のプロットの転換点に置かれた「草原の輝き」をディーニーが読みあげる場面だろう。バッドとディーニ―が仲睦まじく歩いていた頃の学校の明るい廊下とはうってかわって、バッドが童貞を卒業したことを知ったディーニーの鬱蒼とした心情を照明と撮影のエフェクトによって暗いトラッキングの画面で描き、詩の意味を問われていてもたってもいられず駆けだしてしまうまでの芝居の間、カットの入れ方が、劇的な場面の効果を表現しきっていて感心した。

 話は逸れるが、『ローマの休日』(1953)にも、うわ言でオードリー・ヘップバーンが演じるアン王女がシェリーの「アレスーザ」Arethusaを諳んじてから「キーツの詩です」と結ぶと、グレゴリーペック扮する新聞記者が「シェリーだろ」と訂正し、口論をするという場面がある。私はこのシーンに引っかかりを覚えていた。つまり、イギリスのロマン派の詩人を知っている人ならこのやり取りは滑稽だが、知らないと何も面白くない。吉村英夫が『ローマの休日―ワイラーとヘプバーン』(朝日新聞社、1991年)で記憶が間違っていなければ、このやり取りを、新聞記者が王室の女王よりも知識において勝っているのを描写しており、高尚だとしていたような気がする。ところが、これはスノッブな会話ではないかという疑念が浮かんでしょうがなかった。合衆国の当時の脚本家の知的レベルと、大衆がどのように受け止めていたのか、そもそもイギリスロマン派の詩はどの程度の教養と捉えられていたのか。

 それで、『ローマの休日』の脚本を書いたダルトン・トランボは1905年生まれ合衆国育ち、リライトしたジョン・ダイトンは1909年英国育ちだ。『草原の輝き』の監督エリア・カザンは1909年生まれ、ウィリアム・インジは1909年生まれ合衆国育ち。作り手たちはいずれも大卒で、ちょうどバッドとディーニーと同年代である。イギリスロマン派の詩は50~60年代の大衆が娯楽として消費できるレベルのものだったのだと思う。そう思うと、当時の大衆は学がある。おそらく現代人の多くは、この前(2022年)金曜ロードショー早見沙織浪川大輔の吹き替えで演じられたこのやり取りをテレビの視聴者はポカンと見たのだろう。

 『草原の輝き』に戻ると、この山場は、日本で言うと、恋人を寝取られた童貞の高校男子が漱石の『こころ』の音読をさせられて発作を起こすぐらいの通俗的な場面なのだろう。そんなわかりやすい、わかってしまうシーンがやはりこのエリア・カザンの限界だと思えてならない。

 これは余談だが、バーバラ・ローデンの出演シーンがもったいなく感じる。脚本上は、いわゆるバッドとディーニーが親の庇護から離れて駆け落ちしたしたらばどうなるのかの運命を描いたドッペルゲンガーの役回りなんだろうが。

 それにしても、下世話な泥臭い話をすると、ウォーレン・ベイティナタリー・ウッドがそれぞれヴァージンを演じると言うのは極めて信じがたいミスキャストに見える。2023年現在の日本でいうと、成田凌二階堂ふみ松坂桃李広瀬すず北村匠海山本舞香がキャスティングされる事態を超えるほど違和感があると思う。つまりは、ゴシップだが、この撮影がきっかけで婚約までしたというふたりは、それぞれ、ウッドはエルヴィス・プレスリーデニス・ホッパーレイモンド・バーなどと浮名を流すほどだが、ベイティとなるとなんと「1万2775人」と交際したそうだ。この時はデビュー作だったらしいが。トリュフォーが到底女の肉体を知らないとは思えないジャン=ポール・ベルモンドを童貞のバチェラー役で起用した『暗くなるまでこの恋を』(1969)はパリでは不入りになり、代わりに東京ではヒットしたと聞く。なんとも、映画と言うのは不思議なものだ。

引用『Me キャサリン・ヘップバーン自伝』

「『愛の嗚咽』に出演するため、私が一九三二年にカリフォルニアへ足を踏み入れたとき、ジョン・フォードRKOではたらいていた。せまい撮影所だったせいで、そこではたらいている人たちはいやでも知合いにならざるをえない。フォードは全員の尊敬をあつめていた。その業績は度外れのものだった。まわりには、マッチョな男たちが軍団を形成していた。男たちはフォード映画の常連だった。

 あてはまる役さえあれば、彼らはかならずといってよいほどその映画に顔を出していた。なかのひとりにジョン・ウェインがいた。彼を掘りだしたのはジョン・フォードだった。

 フォード組は六、七人でグループを組んでいた。ワード・ボンドもそのひとりで、全員が百八十センチを優に超える長身ぞろいだった。彼らはフォードのアラナー号(このクルーザーの全長は、たしか四十メートル近くあった)に乗りこみ、よく海へ出ていた。カリフォルニアの沖からメキシコの沿岸へと南下し、ひたすら酒をあおって酔っぱらうのだ。しばらくたってもどってくると、ジョン・フォードは酔いをさまし、軍団の何人かをつかってふたたび新作にとりかかる。『怒りの葡萄』ではへンリー・フォンダ。「駅馬車』ではジョン・ウェイン。『男の敵』ではヴィクター・マクラグレン。フォードと私は、会ってすぐ友だちになった。魅力的だが手に負えない男であることは、すぐにわかった。人生が船だとすれば、彼は自分の船の艇長であり、その意見にはあまりさからわないほうがよさそうだった。いわゆるフォード組は全員が男だったけれど、彼は私のことを寛大にとりあつかってくれた。フォードお気に入りの女優といえば、クレア・トレヴァーモーリン・オハラだ。この人たちはフォードの意見にけっしてさからわなかったと思う。モーリンはとてもきれいな人だった。ほとんどのフォード作品はいわゆる「男性映画」で、女優はどうしてもサシミのツマあつかいされてしまう。」キャサリン・ヘップバーン著、芝山幹郎訳『Me キャサリン・ヘップバーン自伝』ME: STORIES OF MY LIFE BY KATHARINE HEPBURN(文藝春秋、一九九三年)304頁より引用

 

運動表『暗黒街の弾痕』(1937)

運動表『暗黒街の弾痕』(1937)

法廷、秘書のシルヴィア・シドニー果物屋に絡まれる。検事がタバコを吸い、判事が火を渡す、「検事と判事が仲がいいなんて!」。ヘンリー・フォンダの陰口。果物屋、警官に食われる。

シドニーと姉、荷造りを喜んで。

刑務所、ヘンリー・フォンダと所長と会う、机には写真たて。フォンダと黒服の刑務官と、清掃員と話す、「戻ってこいよ!」。刑務所の庭、手前、真ん中、奥の構図。野球が行われていて誤審をするのは、チェスをしていた囚人が「見ていない」のに便乗してブーイングするため。フォンダ、審判の神父と話す。男「また来る羽目になるぜ」。

格子の外からシドニー、フォンダに駆け寄り、抱きつく。警官、皮肉。外に出る。

大家、フォンダを雑誌で見たという、執拗に探す。

シドニーとフォンダ、池でデート。つがいのカエルを見て自分たちと重ね、「どちらかが死んだら、残されたほうも死ぬ」。水面に映る2人、カエルが飛び込み、歪む。

タクシー操業所、フォンダの悪口。

大家、2人を追い出そうとする。

新しい家に移る。

フォンダ、遅刻し、首に。帽子を強く投げ捨てる。

刑務所の男、ボロ宿で枕に拳銃を隠す。

シドニーと電話、フォンダ苦しみ、爪を噛む。

タクシー所、フォンダ、復職を望む。所長にも家族がいることが仄めかされる。

大雨、濡れたアスファルト。傘をささない警官たちに、煙幕弾で襲いかかる強盗。車に乗って逃げるも横転する。

揺れるブランコ、シドニー時計をかける。フォンダ窓から帰ってくる、枠にはまったよう。新聞にイニシャルの入った帽子。警官入って来る。

新聞局、無罪は善人面、有罪は悪人、決まらない時はどっちつかず。有罪が刷られる。

フォンダ連れてかれる、衆愚が物を投げつける。フォンダ怒る。

シドニーがフォンダに面会に、2人とも枠にはまる。「銃」を要求。

シドニー、死刑確定の号外の声に負け、拳銃を買う。

シドニー、乗り込むも金属探知機(丸い、警報、警告、危険の報せ)に。神父に司祭室につれてかれる。メノラーがあるからユダヤ教徒か?

飯を運ぶ、紙のメッセージ。

フォンダ、格子の模様がまだら。アルミカップをナイフにし血をだし、自殺を偽装。

病室、怒り、救急箱(十字架)を蹴り、医者を捕まえる。ここはカットを割らない。

警報鳴り響く、丸の氾濫。

フォンダ人質に、今夜は霧が濃い。サーチライト、機関銃の丸。電報入る、沼から車(『サイコ』)。20数えるうち(ラングはこの後でちょうど20作品アメリカで映画を撮る)。神父を撃ち殺す。

時計、振り子、シドニーの心情。シドニー、驚き立ち上がり、ピアノの音を立てる(『結婚哲学』)。自殺を試みる、実は生きていた。驚き、落としコップと鉄が反響する。

フォンダ、バーに。大衆から無罪だったことを知る。

貨車でシドニーと。フォンダの周りに箱。フォンダは黒い服になる。

シドニー、フォンダを治療。2人で逃げることに。

シドニー、ガソリンを失敬。給油用の穴。

銃で撃たれた窓を割り、タオルをカーテンにする(風を表現)。フォンダの帽子ハンチングに。

フォンダ、KとH。小屋、赤ん坊を産む。めまいカッティングとは違い、フォンダをナメた形で撮り、それからシドニー

赤ん坊を妹に、名はベイビー。南米ハバマへ逃げる計画(『はなればなれに』)。

タバコを盗みバレる。

フォンダとシドニー車に。タバコを吸ってから、フォンダへ、関節的に口づけ(『クラッシュ・バイ・ナイト』)

車は撃たれ横転。シドニーは死に、フォンダは引きずる。狙撃銃のサイト、フォンダに狙いをつけ、銃声。フォンダに神父の君は自由だの声が響く。

映画評『警察官』(1933)

 内田吐夢の『警察官』は國民の創生だ。そもそも、警察というのは国家権力という装置によって成立する暴力による抑圧である。そして、それはまさしく近代においてこそ誕生した制度である。この『警察官』において見せつけられるのは、個人として哲学を語り、走り駆けた旧友を逮捕するために、「一個人」から「警察官」という私を捨てた存在に変貌する瞬間である。物語を辿ろう。

 警察官伊丹(小杉勇)は銀行強盗のはずみで上司を殺した犯人を追っている。手がかりは脚の怪我と指紋のみである。そんな折に草原で寝転がりながら思索に耽り、陸上競技ではハードルを飛び越え、ラグビーでは猛ダッシュし、燦然と輝く海を前にボルゾイ犬と駆ける、うつくしい青春を過ごした哲夫(中野英治)と再会する。    

 垢抜けず生真面目な警官であるからか伊丹は地味な着物をまとっているのと引き換えに、哲夫は爽やかで都会的で洒落た背広を着こなしている。なぜか足を引きずりながら歩く哲夫はすき焼き屋に伊丹を誘い、酒を交わす。が、伊丹は気づいてしまう、もしかしたら哲夫が犯人なのではないかと。そこから伊丹の捜査が始まる。路地から路地へと尾行し、動きがないか張り込みをし、指紋を念入りに採取する。それらの行動が執拗に描写される。それにより際立つのは、伊丹が人間性を失い、機械のように馴染みの友人を追う不気味さである。『ロボコップ』(1987)はそのタイトルに反して、自分を殺した犯罪者に復讐を果たして自我を回復するサイボーグを描いているのに対して、この伊丹というキャラクターはマシン化する。連日の張り込みによって無精髭を生やし、薄汚れていく衣服を羽織り睨みつけながら捜査を続ける伊丹は、銀行強盗の人殺しの犯罪者である哲夫が外套や背広を着飾り丁寧にポマードて整えた髪に素敵な笑顔という出立ちと比べるとなんと見苦しく、無様なのだろうか。

 伊丹が指紋を照合させ、哲夫がクロだと暴いた瞬間、カメラがさまざまなアングルからその顔を撮り、「警察官」、「警察官」、「警察官」というテロップがでてくるのは実に象徴的である。そののち、すぐに現場に駆けつけるバイクに乗った警官たちをとらえたとトラッキングとともに、以下のようなテロップが表示される。

「警察の使命は國家の安寧と静謐(せいひつ)とを保持し。民衆の生命財産を保護して各々其の堵

(かき)に安んじて生活を爲(な)さしむる

に在る/ 宜しく廉恥を生命とし犠牲奉公の警察

精神を體(たい)して/ 威武屈することなく情実に淫することなく/ 如何なる場合に於ても自己の危難を顧

ず水火を潜(くぐ)り兇徒と闘ひ殪(たお)

れて後已(や)むの覚悟がなければなら

ぬ/ 殊に國憲國法を軽んじ國民確信の中軸

たる萬邦無比の我が國體を傷けんとす

る徒輩に対しては断乎として之を膺懲

彈壓(ようちょうだんえん)せねばなら

ないのである/ かヽる労苦かヽる職責は眞によく警察精神に生き警察を天職と心得てこそ始めて/ 完全に遂行し得るのである」

 

 ようは、自分を捨てて国に忠を尽くせということだ。ラストシーンで伊丹は哲夫の手を撃ち抜く。その時に伊丹は自分のシャツをちぎり、血を流す哲夫に傷口に巻きつけてやる。私はその時、哲夫が磔にされるキリストのようにみえた。確かに、まぎれもなく、哲夫は罪人であるが、それを裁かなくてはいけない伊丹はカルマを背負うことになる。唯一無二の友を死刑台に送るのだ。統治機構の犠牲となったのは他でもない伊丹自身なのだ。その時、国民が創生されるのである。

 さて、ビートたけし黒澤明にたいして、『まあだだよ』(1993)で靴を使った時間経過の描写があってああいうのは考えないといけないなと話していたが、この『警察官』(1933)はありとあらゆる方法でうつろう時間が描かれる。

1 時計の針が進む

2 街の地図にネットが投げかけられるようすが合成されていき、そのうち実写の街の写真、真俯瞰からとらえた都市が映る

3 すき焼き屋で飲んでいるとカメラ位置はそのままにオーバーラップして座敷に客が増えていて襖によって間仕切りされているふうにわかる

4ビリヤードの球が当たって弾けるようすを編集で何回も見せる

5 白熱電球が切れるようすを見せて長時間が過ぎたのを見せる

ハワード・ホークスが『暗黒顔の顔役』(1932)でカレンダーがマシンガンの轟く銃声と共にめくれていき、時が経つのを描いたように、この『警察官』もまたこうしたレトリックが用いられている点も注意しておくべきだろう。イマジナリーラインを乗り越える場面やマッチカットなども散見され、モダンで饒舌な話法を今の映画は忘れてしまっている。過ぎ去る時間を描くことによって保たれる連続性。それが映画を映画たるものにしている。

映画評『上原二丁目』

 松濤美術館の「「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容」で一際目を引いたのは大辻清司の写真である。ただ書斎のモノを陳列しただけの写真、ただ仏壇で拝む人を撮った写真、ただ商店街を撮っただけの写真。それら何でもないものがどれだけ活気づいていたことか。

 とりわけ、大辻の『上原二丁目』が映しだす風景。広角気味ベビー三脚ぐらいの高さから通学路を路地から狙ったワンカット映像だ。

 児童の騒ぐ声がオフから聞こえたり、小学生が傘でチャンバラしながらフレームインするとてつもないアクションに満ちた瞬間があったかと思えば、タクシーが急に2台も止まったり、サラリーマン四人組がカメラを気にしながら髪をかき上げて歩いてくるという、まさに大掴みに何でもないものを周到に演出されたかのように見えるほどに素描した傑作である。

 といったものの、『上原二丁目』に演出は存在する。それはこのキャメラをこの場所、この時間に置けば、興味深いものが撮れるのだという意図と作為があってこその成果なのだ。

 確かに優れた監督による劇映画は画面がコントロールされている。何が映って、何が映ってはいけないかの選択と排除が行われている。つまりは、拘り、おおらかさ、ずさんさ、優しさ、厳しさがすべて画面に現れる。だから、ウェス・アンダーソン小津安二郎ドン・シーゲルスタンリー・キューブリックの映画に息苦しさを覚えるのはすべてが監督の意図通りに撮れてしまっているがゆえの不自由で退屈な時間拘束の体験となってしまうからである。

 まぎれもない時間芸術である映画において、鑑賞者が自由を享受できる、開放的な体験。いつでも見るのを辞めてもいいし、いつ見てもいい映画。断片においてこそ価値のある映画。ふと覗くと見える窓のように。それは、リュミエール兄弟、マイケル・スノウ、アンディ・ウォーホルシャンタル・アケルマン、ローラ・マルヴィとピーター・ウォーレン、マルグリット・デュラスが作った作品はそうだといえるだろう。無意味なはずの時間が画面として現前する。政治的な「運動」の記録としてのフィルム=シネマへの可能性を感じる優れた、オールタイムベストである。