映画評『哀れなるものたち』(2023)

「わたしの身体はわたしのもの」

『歌う女・歌わない女』(1977)



 『哀れなるものたち』(2023)に対して覚えるのはノスタルジーである。メジャーの映画会社であるフォックスサーチライトすなわちディズニーが配給している点である。ストーリーは実の子の赤ん坊の脳みそを移植されて復活した女の奔放な冒険譚という、60年代にB級映画の帝王の異名を冠した悪名高いロジャー・コーマンジェーン・アッシャーで映画化していてもおかしくないようななんともゴシックなストーリーである。

 コスプレ劇というのは難しいものだ。『クルエラ』(2021)はファッションデザインの世界を描いているにも関わらず、衣裳は記憶に残らない大人しさで、肝心の演出が単焦点レンズの中央切り返しという凡庸な撮り方で実に大人しかった。

 それと引きかえに、ヨルゴス・ランティモスの演出は、ボスやブリューゲルといったフランドル派風のビザールなタッチを取り入れて地獄のような貧困にあえぐスラムの人々や合成獣を映したり、魚眼のレンズで人形劇のような露悪的な撮り方をしている。セットも『クルエラ』と違い、立体的な構造で、二階から一階まで地続きになっているセットが組んであって、そこを俳優やキャメラが行き来するのを見せるから躍動感がある。それこそかつてのジャン=ピエール・ジュネを思わせる異色の娯楽作である。

 見ていて退屈はしなかったが、それはこの映画の間のない編集の効果によるものだろう。本作には動いているカットしかない。いわゆる俳優のリアクションしているカットではなく、アクション、芝居や絡みをしている最中だけがつねに切り取られているからである。ただ、激しく動いているところでは劇伴が高まるという演出は弱い点ではあろう。とはいえ、この映画はある世界観を描き切ると言う点では成功している。

 この映画でつねに強調されるのは「わたしのからだは、わたしのものである」。フィアンセと契りを結びながらも、あえて好色一代男悪徳の栄えに興じる主人公のベラは道徳や倫理が欠落した善悪の彼岸にいる者である。主体的に自らの意志で行動する点において彼女は、社会に抑圧された実質的な死者よりも、人間らしく生きていると言える。そして、このベラはパートナー関係になるコミュニストの売春婦のキャラクターに感化されて集会に行くというシーンまである。上野千鶴子は『ニッポンのミソジニー』で宮台真司を批判しながら女性が身体を売るとは自らの実存のためであると論じていたのを思い出すが。かといって、結局は契約を交わした相手とのファミリーロマンスに帰結する点において、父権制への迎合だろう。その上、それらの映画では画面に映る女優は視覚的快楽として撮られていることも改めて問題視すべきだ。

 濡れ場のシーンをこれでもかと見せるが、深田晃司の『よこがお』で筒井真理子が全裸で四つん這いに市街を這うシーンを高く評価するのと同じように、それは性への信奉であり、見せつける演技の称揚である(若尾文子という希代の映画俳優がこの映画を高く評価していることに驚かざるをえない)。濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』も、塩田明彦の『春画先生』もそうだ。アンチポルノどころか、ポルノだ。

 その描き方はゴダールが『勝手に逃げろ 人生』で無惨にも見せつけたものにも、ファズビンダーの『四季を売る男』にも、アケルマンの『わたし、あなた、彼、彼女』の域には到底たどり着いていない。

 むろん、性描写は要素であり、映画の中心ではないがゆえに考えざるをえないだろう。

映画評『不審者』(1951)

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 ストーリーは不審者の通報をきっかけに、警官の男が地元の名士の人妻と関係を持つ。男は身体と遺産目当てに名士を罠に嵌めて殺す。男は未亡人と結婚するも、すでに自分の子供を孕んでいることに気がつく。子が産まれて、不倫関係が発展しての謀殺が、世間に明るみになれば、ふたたび事件が捜査されてしまう。焦る男はゴーストタウンで分娩を試みる。医者を無理矢理連れてきて口封じに殺そうとするも、残虐な行為を怖れた妻に阻止され、警察に包囲される。というのがあらすじ。

 『不審者』というタイトルは、警官であるはずの主人公をあらわしている。主人公の男は、犯行現場を訪ね、実況見分のため、小窓から女を覗き見る。その行為自体は犯人の動向を検めるためのロールプレイングなのだが、その実演が主人公の末路を暗示している。

 主人公は亭主を殺すために不審者のふりをして、誘いだす。草むらに隠れ、扉を揺らし、武装した旦那をおびき寄せて、それを口実にし、殺人を公然と犯すのだ。

 この脚本の構成がさすが冴えている。そして、舞台となる場所も限られており、邸宅、モーテル、教会、ゴーストタウン、裁判所、ドラッグストア、主人公のアパート、同僚の家とたった8カ所である点。ドラマが洗練されており、物語の緊張感が弛まない。それはこの登場人物の権力関係が常にゆらぎ、追い詰められる状況が作られているからだろう。主人公の警官は不在の人物に脅かされる。その最たる脅威は他でもない自分が作った子である。結局のところ、すでに詰んでいたのだ。不義密通を働いたこの主人公はもう破滅していたのである。それはやはり根本に女性嫌悪が根強くあるだろう。

 あえて映さずにラジオから聞こえる音声を効果的に用いた見せ方はやはり特筆すべき点だ。それは『ローマの休日』(1953)で王妃の容態を、『拳銃魔』(1950)で強盗犯の凶行を報じ、本作『不審者』(1951)では死んだはずの夫の「いまから会いに行くよ」という声の録音が、それを聞く当事者の男女にゆさぶりをかけるというシーンを書いてきた脚本のダルトン・トランボの得意とするシチュエーションが用いられているからである。メディアが報道する公の真実が、それを聞くカップルの私性を脅かす。

 そしてそれに見合ったジョセフ・ロージーの演出もずば抜けている。事実上の略奪婚が祝福される教会の階段の上から狙った長回しのパンで撮られた画面構成。この広角気味でぎこちない高さから狙われており、効果的であり、実験的なのだ。

映画評『パーフェクト・デイズ』(2023)

 簡単に言い過ぎかもしれないが、ニュージャーマンシネマというのはナチスによって受けたダメージに対しての作家たちによる批判という側面はあると思う。アウシュヴィッツ以後に詩を書くのと同様、映画を撮ることも野蛮なのだ。ヒトラーが利用した映画メディアに対し、反省がなければ、どんな映画を作ってもプロパガンダと何ら変わらない。

 ヴェンダースは元は画家を目指していたが、寒さを凌ぐために通ったシネマテーク・フランセーズで出会ったアンリ・ラングロワの影響で、映画作家を志したとも語っている。彼は根は典型的なアプレゲールではないか? 苦い敗戦国家のナショナリティを捨て、異国の文化に熱狂する。実際、彼は『世界の涯てまでも』以後、ほとんど母国で撮らず、世界を転々としている。

 ヴィム・ヴェンダースは間違いなく計り知れない功績を築き、世界的な名声を手にした映画作家なのは間違いない。ただ、それは小津安二郎が軍服をきた人間を映さなかった、つまりは戦争を排除したわけだが、ヴェンダースが自らのナショナリティを消して他国ばかり取り上げるのは果たしてどうなのかというのは、今後も見なければわからないことだろう。

 『パーフェクト・デイズ』には紛れもない映画作家ヴェンダースの署名が刻印されている。都心の透明なガラス張りの公衆トイレは鍵をかけると曇りガラスになるという防犯対策のギミックが仕掛けられている。役所広司はトイレ清掃を終えて鍵を外すと、窓の外に奇怪なポーズをとった浮浪者がいるのがワンカットでしめされる。『ハメット』、『パリ、テキサス』ほかのマジックミラーの変奏である。そしてトイレに必ず備え付けられている鏡のある洗面台も映画的な装置として活用される。柄本時生がトイレの入り口に立って初登場する時にカットバックがある。その時役所は柄本に背を向け掃除をしているのだが鏡に映る顔は柄本の方を向いているという技巧を見せてくる。鏡は、黙々と働く役所広司の顔のみならず、時には都市を、時には後ろに立つ人物を切り抜くフレーム内フレーム、窓として使われる。

 そして光に対する感覚も映画作家と損なっているわけではない。どす黒く落ちた木漏れ日、ゆらめく温泉の反射光、夜景の河川敷の橋から延びるビームライト、いささか作りすぎかもしれないが。

 役所広司は清掃員として隙なく動くようすはきびきびとしており、労働しているようすをある種の器械体操のように見せる。これはいわゆる汚いところを掃除したときのカタルシスではなく、パフォーマンスであると取るべきである。いわば、良くも悪くもフリッツ・ラングみたいなものだ。

 この映画は非常に人工的なのである。役所の住むアパートは壁はそれなりにボロボロなのだが、畳はやたら綺麗だし、UNIQLOのグレーのポロシャツをずっと着回しているし、妹の娘が「ニコ」なんていうあのヴェルヴェットアンダーグラウンドの歌姫の名前(ちなみにクリスタ・ペーフゲンがニコを名乗ったゆえんは、恋人だったニコ・パパタキスという映画監督から。理由は「女に産まれたことを後悔しているから」。ペーフゲンは米兵から性的暴行を受けたことがある)を冠しているわけで、そもそもほんとうらしくない。CMくさいという批判もあるが、それはこの映画が偶然性をそれだけ廃して、作家の意図通りの完成度に到達しているからそう見えてしまう皮肉である。

 役所広司の芝居は基本的にはいいのだが、どうも表情を作るホアキン・フェニックスの『JOKER』あたりからの流行りなのか、泣きながら笑うみたいな芝居の長回しでこの映画を終わらせてしまうのはあまりにもわかりやすすぎるし、表情を作りすぎているきらいがある。それは指摘しておかねばなるまい。

 そして、役所広司の演じた平山は裕福な家を飛び出してあえて清掃員として働いているからだ。それは妹と会う場面から察せられるが。つまりは、ブルーカラーの仕事についているのに、あれだけ本や音楽を愛しているのはもとの生まれ育ちが上流階級だったからだと観客に説明するわけだ。これではあまりに決定論的ではないかと感じた。そこに一抹の嫌悪感がわいた。

映画評『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)

 この映画の話法として重要なのは何も知らない未熟な少年が、未知の魔法界に足を踏み入れるという点である。

 だから、常にキャメラのアングルは観客が魔法界にいるかのようなところに据えられている。真俯瞰から撮られたクレーンのキャメラがランタンの灯ったボートに乗った生徒たちをフレームにおさめる。クレーンはゆっくりと下降してくのに合わせてキャメラはティルトアップすることによって構図は水平になり、ホグワーツ城を映し出す。

 それから彼らが学校の階段を登るようすを、上から見下ろしている魔女の教授がおり、じれったそうに手すりを触って待ち受けているようすが、ワンカットで描かれている。あと、たまに魚眼のレンズの引きの絵で撮るショットもあったりして、談話室に案内された時の俯瞰、みぞの鏡をハリーが訪ねるシーンに用いられているが悪くない。照明もしっかりコントラスト、バックライトの加減、青やアンバーの光を使ったナイターの表現ができている。ただ、炎を使うならもう少し炎が炎らしく見えるように照明を作るべきではあるがそこは目を瞑ろう。

 この映画はセリフをほとんどマシンガントークレベルに喋る場面が多いが、それにより、リアクションカットが際立っている点も注目したい。たとえば、9 3/4番線のホームでまくしたてるように喋るウィーズリー夫人は息子のロンを紹介するも当のロンはニコニコしているだけ、ハグリットが学校の先生が生徒に呪いをかけるわけがないとハリーたちをなだめるところでもロンは顔をしかめているだけだったりする。

 普通は、俳優を黙っているだけのシーンのために呼びたくはない。せっかく現場に来たのだからセリフを増やすみたいなことをしてしまうかもしれない。だが、監督のクリス・コロンバスはここでは子役の芝居、リアクションを撮り、最終的に編集するとどうなるか考えた上で撮っているのだ。なので、本作はちゃんと効率的に物語を語るカット割りが普通にできている。それは正当に評価すべき点である。

 映画はまずもって絵から語り、それから言葉が語る。ゴダールが『デュラス/ゴダール ディアローグ』で議論していたように。『ハリー・ポッター 賢者の石』ではこの絵で語り、言葉で語りという流れの使い分けができている点も昨今の映画よりもよくできている。

 この映画で言葉から先行して説明されるのはホグワーツ魔法学校、ヴォルデモート卿、禁じられた森、3階の廊下、賢者の石、チェスについてである。それは物語上、説明しなくてはならない。ハリーの立つ舞台装置を効果的に見せ、かつ対峙する試練を際立たせるためのいわば神話作用である。

 対して、この映画で描かれる「魔法」は絵で最初に見せてくれる。ラテン語の造語を唱えて起きる現象、つまりは豚の尻尾が生える、眼鏡が治る、物が浮く、箒が暴れる、鍵が開く、閃光を放つといったエフェクトが先んじて、エクスプレインは後である。(例 ハーマイオニー「基本呪文集第七章よ」)。

 そして、いちばんよく出来ているのは、あのクィディッチというゲームの説明である。ルールは荒唐無稽だ。ずさんな決まり事というのもなかなか可笑しいがそれはともかく、3種類あるボールの特性を見せることから描いている点が見せ方が巧みである。クワッフルはバスケボールのようにパスしてウッドが輪っかに入れと得点と説明すると遠景に見える競技場にそびえるゴールがズームで強調され、ブラッジャーを解き放ってハリーが打ち返して戻ってきたのをウッドが「暴れ玉だよ」と教え、最後にスニッチはゲームのキモなので事細かに話すと動き出すという仕掛けになっている。この言葉と映像の絶妙な塩梅。阿部和重はこの映画を貶していたがそれほど悪いわけでもあるまい。改めて少し見返すと、歩いているシーンのトラッキングのワンカットで早撮りしているのがわかる。

 ファンタジーもの、SFもの映画を撮る上で難しい課題を難なくクリアしている。これらジャンルは基本的にはティーンエイジャー向けのラノベなので饒舌さばかりが際立ってしまう。

 悪い例として挙げている訳ではないが、ロバート・ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでは主人公のマーティはドクがまずもって何が起きているか(実の母親が君に恋をしているからタイムパラドックスが起きる、時計台に落ちる稲妻と同タイミングで車を走らせる、未来では息子が犯罪者になるから止めないと、機関車を改造してタイムトラベルをする、チキンレースに参加して交通事故を起こす等)をセリフで先に明かす。

 この物語が先か、映像が先か、といった問題をなぜ重視すべきなのだろうか。

 「同じものの反復にはどんないい点があるのか。観客は1度目で話を理解しているので、2度目以降は純粋に映像と音響を楽しめるようになります」とスピルバーグの映画について指摘したのは廣瀬純だった。

 この言葉と映像の相関関係は映画とは切り離せないテーゼである。しかしながら、この図式を破った、シニフィエなきシニフィアンは可能ではある。それは『晩春』の壺であり、『汚名』のワインボトルであり、『ブロウ・ジョブ』のジェラード・マランガの顔であり、『インディア・ソング』の映像そのものであり、『ジュラシック・パーク』のショットガンであり、『シチリア』のパン、『フォーエバー・モーツァルト』の戦車である。それらは物語においてなんら機能しておらず、映像として浮いている。そののっぺりとした表層が物語へのアンチテーゼであり、言語を断ち切ったまさしく映画なのではないか。

 と思うのだが、『ハリー・ポッター』に仕方がなく軌道を修正すると、脚本はうまく人物関係と展開をまとめていて秀逸だ。この映画の監督のクリス・コロンバスは『ホーム・アローン』を撮っているが、実はこの『ハリー・ポッター』とも共通項がある。それは浮浪者=アウトサイダーが主人公の成長のきっかけになっている映画であるということである。いわゆる、このコロンバスが監督した3作品はみなしごが主人公であり、崩壊した家族を取り戻すのがテーマである。そのきっかけとなるのは他でもない家族関係が崩壊した年長者(独居老人、ホームレス、森番)の助けによるものなのだ。まさに、ファミリーロマンスである。

 最後に余談だが、ハリー・ポッターシリーズはなぜかお辞儀が反復される。『秘密の部屋』の決闘クラブ、『アズカバンの囚人』のヒッポグリフ、『炎のゴブレット』のヴォルデモートと、礼節をわきまえるべきだという啓蒙なのかわからないが、不思議な繰り返しがある。流石にこれは拡大解釈する余地はない。

映画評『断片的なものの社会学』

 「コンビニエンスストアは、音で満ちている」ーー村田沙耶香コンビニ人間

 


 岸政彦の『断片的なものの社会学』にあった挿話が非常に映画的だった。ここで言う、映画的とはいわば『ラ・ラ・ランド』(2016)のような、映画狂の監督が、シネマスコープの画角で、色数を絞ってカラフルな色彩に統一し、高揚感をもたらすような劇伴が昂るととともに、現実から飛躍した幻想的なシーンが広がるというポップな意味ではない。そうではなくて、確かに人工的にある程度統御されてはいながらも、自然主義的な、ドキュメンタリー的な、ダイ・ヴォーンに満ちたものか、あるいは映画というメディアの可能性に賭けた実験的なものを指して、ここではとりあえず「映画的」と呼ぶのだが。

 『断片的なものの社会学』に収録されている「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」で、仮構されるストーリーが、「映画的」なのだ。とある夫婦が長い旅行に行くので、防犯のため留守の間に録音した生活音を流しっぱなしにしておく。夫婦がそのまま帰ってこなかったら、あるいは帰宅してスピーカーのスイッチを切ってほっと安堵するのか、部屋に残響するその生活音を聞いた人はどう思うか、という思考実験的なエッセイ。

 私には、ほとんどマルグリット・デュラスジャン=クロード・ルソーシャンタル・アケルマンアッバス・キアロスタミ、大辻清司のような映像が浮かんだ。無人化された居間にしみいる音、音、音。近くに学校があったとしたら、チャイムの音を拾ってしまったせいでおかしなタイミングで流れて滑稽かもしれない。音楽学校があれば歌やピアノの音が聴こえるかもしれない。雨が降れば雨もないのに画面中では窓にうちつける雨音がして不気味かも。街宣車が流す騒音を拾っていたら。そういったロケーションによって変わるのでも面白いし。夫婦とあるけれども、さまざまな夫婦のかたちがあるわけで、職業も在宅もあるし、もういくらでもやりようがあるではないか。

 近々、もう少し暮らしをいまよりも余裕がもてるようにする予定があるので、そしたらばこの映画に着手してみたい気持ちが非常に強い。

映画評『哀愁の湖』(1945)

 普段、映画を見ていて戯けた話だと思うことはあまりない。とは言いつつも、五所平之助の『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933)が伏見晃があまりにも泥臭く通俗的な脚色を施していて、一高生が惚れた旅芸人の女が旅館の亭主の下に身体を預けることになるのではと案じる。亭主から息子の嫁として大事にするからと諭され、一高生は身を引くという、単なる筋書きの消化でしかないシークエンスを見せられてまったく画面が入ってこなかった。この映画は演出においても、ローポジから地面の線を高くした絵画的なアングル、温泉地を俯瞰から狙ったカットといった意欲的な見せ方をしているも、肝心の何を見せて何を見せないか、何を語り何を語らないかの判断が、みにくかった。

 『哀愁の湖』Leave Her to Heaven(1945)はそうした類いの映画である。病的なファザコンの女性(ジーン・ティアニー)に「死んだ父親に似ているから」求婚された作家の男性(コーネル・ワイルド)はそのまま結婚。女は男を束縛しようとしていたが、男には足の悪い弟がいて、女はその世話をせねばならず、せっかくの生活も台無し。コテージに連れてかれるも、部屋は薄くてぜんぶ筒抜けで、挙げ句の果てに客人まで招く。耐えかねた女はわざと義理の甥が溺死するように仕組み、夫の子を孕んでも階段から落ちて流産。夫は夫でその妻の妹と小説をともに書くほど関係性を深くしたため、妻はあたかも謀殺されたかのように毒を飲んで死に、裁判沙汰に。と大筋はこんなものだ。

 それにしても、弟の世話を妻にすべて押し付けて、のうのうと小説を書く男があまりにも酷い。恐らくベストセラーの通俗メロドラマ作家なのだろうが、留学していたインテリのくせに異常な愛に気がつくもの遅すぎるし、そのうえで妻の妹と関係性を築くあたり、どうかしている。

 そのせいで、ジーン・ティアニー演じるこの妻のキャラクターが、劇中で「Monster !」と罵られるような悪女とも狂女とも思えない。むしろ、この作家に踏み躙られて、こうした凶行に及んだと思えて、正当性があると思えてしまう。そもそも、この女が罪を犯す前にしていた奇行も大して病的ではなく、旦那が高校の頃付き合っていた女とどうだったか気にする、医者に義理の甥を介護する苦しみを訴える、コテージで自分を蔑ろにして身内とはしゃぐ夫の姿に怒るというだけである。これが気狂い沙汰とは言えない。

 この映画の問題は演出の凡庸さである。たとえば、はじめ列車でティアニーとワイルドが出会い、見つめ合うシーンの間延びした長回しのクローズアップ頼みで見せ方としてはもう呆れるほど退屈だ。ティアニーが落とした本を拾う動作でワイルドが近づく導線も醜く、なぜか本が落ちた瞬間にロングショットに引いて2人の位置関係をいかにも説明する編集が悪い。他にも、ティアニーが階段から身を投げるシーンのタメの演出も弱いし、それを目撃した駆けつけるコーネル・ワイルドたちのリアクションカットがないことによって、劇的なシーンなのに悪い意味で演劇のように即物的である。たぶん、どのシークエンスもそうした問題を抱えていて死んでいる画面が続いているようにしか見えなかった。それに、ヴィンセント・プライス演じる検事の独壇場の撮り方もショットサイズが効果的でないし、急に入るジーン・クレインのクローズアップも審美的だしで、ザナックプロデュースのスター映画(『西武魂』(1941年、フリッツ・ラング)、『荒野の決闘』(1946年、ジョン・フォード))特有のくどさがある。

 ただ、ティアニーが甥が溺れ死んだあとに広がる無情な水面の揺れを前にしてサングラスをすっと外して、あどけない艶やかさに彩られたアサガオのような素顔を露わにする瞬間は、もうそのスターそのものの神話的なアウラが轟いている。

 この映画は彼女がシーン変わりのたびに衣装を着替えていて、白い流れるようなドレス、モックネックのセーター、ネルシャツにジーンズ、水着、ネグリジェと衣装のケイ・ネルソンによるファッションショーとしては見ていられるかもしれない。どの衣装も(男女問わず)肩パッド、大きな襟、鋭いVネックというデザインで80年代のようにキッチュだ。

エッセイ「ひとでなし!」

「愛している人を軽蔑するのは自分を軽蔑するのと同じ」『アメリカの夜』La Nuit américaine(1973年、フランソワ・トリュフォー監督)より

 

 フランソワ・トリュフォーが「Salaud 」と揶揄するのを、山田宏一は「人でなし」と訳す。

 人を人でなしと罵倒するのはいささか滑稽である。ただ、もっと馴染み深い他人を痛罵を浴びせるような言葉に訳にすと、それを発している書き手の品位を読者が疑ってしまうことになる。だから、「人でなし」というのはなかなか妙である。

 「サラリーマンなんて子供作って終わりだろ」。初めて人を「人でなし」だと思ったのは、飲み会の時、とある大学の教授だった。自分の周りの人々の人生が冒涜されているように鋭く感じた。他の人間は生きている意味はないと嘲るような口ぶりだった。そして、この人はそんなたいそうな偉業を遺しているのかとすかさず疑問を抱いた。実際のところ、その人なんて一部の業界人以外誰も知らない。なのに。目の前の尊敬すべき人間がそんなファシストばりの優生思想がどこか内面化されていると思うと、いまでもゾッとする。私はそうした人間の尊厳を蔑ろにするようすを見ていると虫唾が走る。むろん、たったの一言である。それが、心の琴線を強く震わせたのだ。

 すべての人の人生は等しく意味はない。だが、物語が、歴史が、意味が、価値があると思って生きるのが人間である。

 ただ、私は「なんとなく」で生きるのは嫌だ。決定論、つまりは産まれ育った環境の影響で人はすべて決まるという無慈悲なベルトコンベヤーに載せられて屠畜されるような死に方は耐えられない。ネクロマンサーにコントロールされているゾンビのような。

 私の今の悩みは私が私であるために生きるのを阻害されている点である。いままで己として動くために1年ほど耐えてきた。無理をして職場の人間関係を築くためにさして興味のない人間と付き合ったり、仕事について理解度を高めたり、長い時間働いたり、使い勝手のいい奴のふりをしてあちこち働いたりしてきた。だが、それは自分がある一定の期間、活動資金のために都合よく稼ぐための戦略なのである。そこに多少なりは偽りではないところもあったが、自分の中では演技していたというきらいが否めない。しかし、ごっこ遊びとて実銃を使えば人は死ぬわけで、本気でやればそれは真実味を帯びるのである。