映画評『蜘蛛の巣』(1955)

映画評『蜘蛛の巣』(1955)

 確かにたしかにシネマスコープ長回しが成功しているかといえば難しいところがあり、リチャード・ウィドマークが寝室にいるにも関わらず患者の話ばかりするのでグロリア・グレアムが激昂するショットは割ったほうが演技のリズムをよりゆらぎがあって見事だったのだろう。その点ではダグラス・サークの方がいいという人がいてもおかしくはない。
 だが、細かな演出の細部を見ているとこの映画は見劣りしない完成度を誇っている。俳優の所作がかなり緻密に観察されているのが窺えるのだ。まず、グロリア・グレアムだが、彼女は脚本の上でほとんど裸のような格好で過ごす場面ばかり設定されているのは舞台設定の妙が効いているがそれは置いておくとして、コンサートに行くと電話のために中座してボックスに入ると口論になり、先ほどまで開けていた扉をぴしゃりとしめる。この一見するとまったく無駄でテンポを削ぐ動作を芝居のきっかけにしているのが実に効果的に用いているのは明確だろう。それ以外にも患者と話しているリチャード・ウィドマークに部屋から追い出されてすっと扉を閉めて振り返る仕草なぞ派手に演技してやろうというのがなくさりげなくてなかなかのものだ。おっと、この程度の演出ならば誰でもできるだろうと反論する者が現れた。では、彼女がシャルル・ボワイエとコンサート会場で出会した時に後景にいるカップルの女がじっと彼女に視線を向けているエキストラにまで行き届いた細部に気がついた者はいるのか。この映画の「仕出し」のタイミングというのはそれこそミュージカルのように華やかでそして軽やかで溶けるようだ。ウィドマークがバコールと不倫をしてしまう時に車両を停めると、後ろを通り過ぎていく自動車も憎いくらいうまい。
 やがてリリアン・ギッシュが興奮して部屋から出る際に扉を開けっ放しで出て行く。彼女は3度この仕草を繰り返すが、1度目のローレン・バコールへ怒りをぶつけウィスキーボトルを棚にしまうとすぐさま去るが、その時に廊下を看護師の男が通り過ぎていくのが映る。これは芝居を見ながら助監督がキューを出したわけだが、脚本を読んでこの場面にはエキストラが通り過ぎることによって効いてくるものがあると判断した優れた芝居の練り方に映画の水準の高さが見えるだろう。2度目はシャルル・ボワイエと話している場面でここでも扉を開けっ放しででていることに驚くが、3度目のリチャード・ウィドマークと対面しているところで単なる俳優の演技の好みでこうした演出を施しているのではないことが明らかになる仕草が現れる。それはギッシュがウィドマークと向かいあいながらドアノブを握っていることであり、おそらく芝居をしている際に感極まってつい触ってしまったのだろうが、それでもそのまま出て行ってしまうのだ。だから明らかに指示を出されて所作を繰り返しているのだ。『ドアの映画史』やら『映画空間400』みたいな本があってもこうした真に映画的な空間というのはまったく記載されていない。我々はせめてドアの映画史程度でもやり直す必要があるのかもしれない。そういえば廊下の場面でギッシュがせかせかと歩いているとその前をエキストラが通りかかって阻んで邪魔してくるタイミングも良かった。少なくともこうした瞬間をオットー・プレミンジャーアルフレッド・ヒッチコックの映画では見たことがない。
 また装飾的なショットにおいても美しく、霧のようでいて切り裂くように降る雨の中、ウィドマークとバコールが逢瀬を重ねる場面で患者の死体を捜索するサーチライトに見立てた光が時折顔を照らすところもこのジャンルでは用いられるモチーフながら、バコールがベレー帽を脱いで髪をふっと触ってフレームアウトするのを追ったウィドマークと抱擁するさまなぞもはや恍惚してしまう。イーストマンカラーに照明があまり効いていないのが少し惜しかろうとこれだけずば抜けた技を見せられるともう黙ってみるしかないというものだ。こうした完成度の高い映画を見ないと歪んで穿った見方でくだらない作品を褒めてしまう危険があるのでなるべくヴィンセント・ミネリは抑えておきたい。プロデューサーがジョン・ハウズマン。